四月、さみしさに醒める

肌寒い四月の曇り空の朝は、すこしさみしい。連日の春真っ盛りとでも言わんばかりの眩しい快晴と暖かい気候に浮かれていたのが嘘だったように感じる。あれはほんの束の間の夢であったと突きつけられるような、暖かくて心地よい夢から目覚めるような。駅のエスカレーターでふと振り仰いだ出口の向こうの曇り空を見ながら、は、と我にかえった。けっしてよい季節がなにもかもを解決してくれたわけではないことを思い出す。鮮やかな春の景色がわたしの人生の彩りをまるっと変えてくれたわけではないことを思い出す。その、やさしく冷たいことを諭すような不意のきびしさに気づいたとき、わたしが四月に見ないふりをしていたものたちと目が合ったような気がした。

 

シャンタル・アケルマン監督特集に連日行っている。昨年の特集で「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」を観て衝撃に打たれてからすっかり彼女の作品のファンなのだけど、今回新しく観られた作品も素晴らしいものが多かった。アケルマンは、フェミニストバイセクシュアルの映画作家であり、その作品にはフェミニズムセクシュアリティ、母親の要素が含まれることが多い。多くの作品の内容からも、今であればクィア映画作家と評されていただろう。なるほど、わたしが嫌いなはずがない。

その中でも、今回観られてよかったのが、「家からの手紙」。ニューヨークの街や電車や駅構内がひたすら長回しで映される中、故郷であるベルギーを出てニューヨークで暮らしていたアケルマンに宛てられた母親からの手紙が朗読されるというドキュメント的内容。実際に母親から送られてきていたという手紙がアケルマンの淡々とした声で読み上げられる。カメラは時に定点で、時に美しい横移動をしながら70年代のニューヨークを映し続ける。手紙の内容は、娘の健康の心配や、近況を教えて欲しいと請う内容、母の周辺の家族や親族の近況について、仕送りが届いたかどうか、などだ。できるだけ頻繁に手紙が欲しい、会いたい、愛してる、という内容が多くを占める。お節介で愛情深いように見えるけれど、少し行き過ぎた執着心も垣間見える手紙たち。母親からの素晴らしい愛の手紙という受け取り方では物足りなく感じる。ニューヨークという自由の街で羽ばたくアケルマンを、故郷に、母親に繋ぎ止めようとするあの手紙たちを読むアケルマンには、きっと相反するいくつもの複雑な感情があったのではないかと考えてしまう。そして、言わずもがな、わたしは自分の母親との関係について、思い出さずにはいられなかった。

アケルマンは、自由だったとき、あんなふうに帰る場所を用意されていたことを、どんなふうに感じていたんだろう、と考える。(ある手紙の中では、新居を購入したい、そうしたらあなたの部屋も作って待っている、という内容がある。)窮屈だっただろうか。それとも、自由で孤独な街ニューヨークで母の愛情を感じて安心しただろうか。母は言う。会いたい、いつ帰ってくるの?「でも好きなようにしなさい」「あなたの幸せが一番です」幸せが一番と言いながら、それが本心でありながら、娘の気持ちに決して寄り添うわけではない手紙の内容に、わたしはわたしの母を思い出す。まごうことなき愛と振り翳されるそれらは彼女やわたしを幸せにするのだろうか。

親の思いに応えることと応えないこと、親と距離を置いて自分の人生を作ることについて考える。愛してないわけじゃない。恩も感じているし感謝もしている。その恩を返したくないわけじゃない。でも、わたしはもうコントロールされたくない。コントロールできない、と思われるたびに自己肯定感を削られるのをやめたい。親の思うように生きることで恩を返すのではない、別の方法はないのだろうか、と考える。あなたの幸せが一番というのなら、それがあなたの思いに応えることでなくても許してくれないだろうか。ラスト、海上からマンハッタンを臨み後退移動していく10分近くの長回しを観ながら、ずっとそんなことを考えていた。

 


かなしいことがあった。何度似たようなニュースを見ても聞いても、これだけは決して慣れることはない。未だ、なにも言葉にならない。ただただ無限のかなしみが足元に広がってゆくような感じがする。誰も、誰の人生も選択も変えることはできない。生きるというその責任を負えるのはその人生を生きている本人だけだから。だから、その選択をせざるを得なかった状況を憂うことはできても、その選択を否定も肯定もできない。でも、ただただ、かなしい。その自分の感情はちゃんと受け入れてあげないといけない、と思う。どのひとも、こんな状況だけれど、どうか安らかでいられますように、と願うばかりだ。

 


会社で嫌なことがあった日、お気に入りのマグカップを粉々に割った。片付ける気力が出なくて、丸一日、そのままになっている。本当にお気に入りだった、陶芸家の山下太さんのインディゴブルーのマグカップ。見るたびにかなしくてたまらない。仕事で起きたことをまた思い出して、立ち上がれないくらいつらくなった。気持ちまで、床に叩きつけられて割れていくつもの破片に散らばったような感じがする。マグがひどい音を立てて割れたとき、ここ最近、見ないふりをしていたよくないことが急に目の前に輪郭を持って現れたような気がした。そのダメージから立ち上がれない。昨晩泣き腫らした瞼で、憂鬱を押し殺して仕事をしている。

 


乱暴に進む時間が立ち直れと言う。もう少し待って、と思う。薄暗い四月が続く。わたしは季節と季節の隙間に足を滑らせて転んで、言いようのないさみしさに横たわっている。