サントメールの僥倖/緩やかに閉じる

この胸に在り続ける孤独と渾々と向き合い続けることが、自分の人生なのかもしれない、とふと思うときがある。それは他人に埋めてもらうものではなく、その不変で不動の石のような存在と自分で向き合い、自分でそれとの付き合い方や解釈の仕方を変えていく。そういうものなんじゃないか、と思う。親友と呼べる友人との食事のあとの帰り道にそんなことを考えるわたしは薄情かもしれない。でも、外部からの力で変えられない、自分にしか変えられない、そういう頑固な孤独がわたしの中には確かにあって、それと付き合っていくのは、間違いなく、わたし自身にしかできないことだ。それが愛おしく思えるときもあれば、はたまたその存在を忘れられる時もあり、それに大きく絶望させられるときもある。それがそこに在る、ということは確かな事実で、それを真に知り、理解できるのもわたしだけなのだ、と思う。悲観しているわけではないのだけれど、ただ、どうしようもないぐらいに、そう思う。

 

 

 

先月の半ばに、「サントメール ある被告」(2022年/アリス・ディオップ監督)を早稲田松竹の上映ではじめて観た。今年の中でも随一の映画体験になったので、当時から今日まで考えたことを残しておきたい。

一つの裁判を通して、あたかも法廷劇かのように展開される映画は、子殺し云々などではない主題を示唆する。子供を海岸に置き去りにして殺害した罪に問われるロランスの罪や物語を中心に据えながら、その裁判を傍聴するラマの人生が交錯し、ラマの母親の人生が交錯し、社会における人種やジェンダー、とりわけ、「母親」について不可視化されているあらゆる問題が浮き上がる。法廷では、裁判官とロランスとの答弁含め、言語が事実を語り、言語が想いを語り、言語が訴えを語る。その一方で、法廷の間に挟まれるラマに纏わるシーンは驚くほど静かだ。特に、鏡台の前で着飾り、すとんと感情が抜けたような無表情のラマの母が沈黙の中で涙を流すシーンには圧倒される。言語では語られない、ただひしひしと伝わってくる壮絶な"もの"……。それはロランスの苦悩やラマの不安ともリンクしていて、その映画的な手法の鮮やかさに深く胸を打たれた。ラスト、ソファに身を投げ出し横たわったラマの母が「疲れた」と呟く。ロランスの判決でもなく、ラマの出産でもなく、このシーンがラストにくる意味を考えたとき、私は自分の母親のことを思い出さずにはいられなかった。

ずっと、産む側ばかりが責を問われるジェンダーの問題と母娘の確執についての物語なのだと思って観ていた。でも、映画の中盤終わりくらいから、この映画の意味するところが明確にわかってきて、涙が止まらなかった。そんな単純な話ではなかった。「母親」であること、その言葉にならない(不可視化されてきたという意味でも言葉にならない)、言語化できない、壮絶さについての話だった。孤独、いたみ、苦しみ、息の詰まるような逃れられなさ(「母親」という枠組みに課せられた役割)、自身でさえも認めることのできない(社会がそうさせない)悪夢のような不幸せ。この社会で「母親」になる/「母親」であるということは、正気と狂気の狭間にその身を渾々と置くということなのかもしれない、と思う。弁護士の語ったような、キマイラの怪物を胸の内に飼いながら。

 


泣き叫んでいた母を、不機嫌に攻撃的に沈黙する母を、激情のままにわたしを明確に傷つける言葉を振り翳す母を、思い出す。彼女だってそうしたくてそうしていたわけではない(かもしれない)ことについて、考える。それでも愛だと、愛しているのだとのたまう彼女の卑怯さについて、考える。それでも、彼女がよい母親たるために、精一杯にやっていたことについて、考える。彼女なりにわたしを愛していたという、事実について、考える。

かつて母は、私を産んだことを幸福だと言った。今そう思えているならもちろん良いのだけれど、でも、そうでないときもあったはずだった。間違いなく。その、気の狂いそうな時間を彼女はどう乗り越えたのだろう。「母親」であることを放棄できず、乗り越える以外に方法のなかった時間を、どういう思いで過ごしたのだろう。母が不幸だとは思わない。でも、その事実だけのシンプルな話でもない。

エンドロールに入っても涙が止まらないなか、ふと、わたしは母をゆるさなければいけないかもしれない、と思った。いや、正確には、緩やかに、「ゆるす」という思いと考えが浮かび上がってきた、と表現するのが一番近いかもしれない。そもそも、彼女とわたしの間にあるものは、ゆるす、ゆるさないという単純な話ではないのだけど、母親というこんな苦悩を背負っていたかもしれないひとに、母親になってもいない/なる選択肢も考えていない人間が一方的に断罪をくだすのは違うのかもしれない、と考える。一方で、友人は、それでも、選択肢のない子供を傷つける理由や免罪符にしてはいけないのでは、と問う。母親をこんな「母親」たらしめる社会に責を問わなければいけない一方、確かにそれも正しい、と思う。ただ、この、複雑に絡み合って、最早その形すらもわからない、わたしの個人的な母との関係について、それへの考え方について、これまでと異なる視点を授けてくれたこの映画体験はわたしにとって僥倖だった。もう、変わることを望んでいない。変わるとしたら、長く遠い時間の経過の中でだけだと思っていた。でも、わたしは本当は行きたかった場所に行けるのかもしれない。映画館からの帰り道、そういう希望のような願望のような思いが蜃気楼のように揺らめいていた。

 

 

 

無事、昨年を繰り返すことなく師走を迎えた。ただ、緩やかな不調が続いていて、石のような孤独やそのさみしさや、ブラックホールのような憂鬱にのまれそうになっては、強制的に思考を閉じる日々を繰り返している。季節の中でも冬は好きな方だけれど、毎度同じような不調に見舞われていて、うんざりする。今月は引越しも予定しているので、できるだけ大きく挫かれることなく最低限の馬力で日々を過ごせるように祈るばかりだ。浮き足だった年末の空気はあまり肌に馴染まなくて好きではないのだけど、一年がちゃんと終わるというのは少しほっとする。穏やかに年末を迎えたい。