夏盛り、茫漠として

抜けるような青い空と突き刺さるように一筋一筋が鋭く眩しい日差しを仰ぎながら、夏が来ている、とごく当たり前でつまらない実感を噛み締める。今年は夏という季節に対する感慨がまるで他人事のようだった。これまでのように長い夏休みもないし、海やプール、お祭りやバーベキューなどの夏らしいレジャーに対する興味もここ最近は薄れてきている。(花火は別だ。)通勤で降りるターミナル駅で、スーツケースを引きずる家族連れや若い人たちの集団を見ると、また、他人事のように、夏が来ている、と思う。今年のわたしにとっての夏は、空がサマーウォーズのアニメ映画のように濃く青くなり、日差しが痛いほど照りつけてきて、とにかく息苦しいほどに暑い、ただそういう季節のようだった。そこに期待も喜びもないことは虚しいことだろうか。仕事に忙殺されるだけの今年の夏においては、仕方がないのかもしれない。

 

今日から休みに入った。朝起きて、昼前までベッドの上で本を読んだりアプリで漫画を読んだりする。午後からマッサージの予約を入れていたのでそれに合わせて起きる。休みであるということが、ここ最近の抜けられない憂鬱から身体も心も少し楽にしてくれるような気がした。強張っていたものを少しずつ解くように、自由で、どこまでも無責任な時間を貪る。

ものすごく久しぶりに朝ご飯に目玉焼きを焼いた。コーヒーを淹れて、日曜に行った大好きなフランス料理の食堂で買ったフィナンシェを食べる。マッサージのあとにどこかで本でも読んで帰ろうと思って鞄に3冊いれる。誰にも会わないのだからノーメイクでいいやと思っていたのに結局メイクをしてしまった。仕事の日には使わない色のアイシャドウを使いたかった。服も適当でいいやと思っていたのに、組み合わせを考えてなんだかんだ二回ぐらい着替えてしまう。わたしはやっぱりピンクと緑の組み合わせが好きだ。

マッサージは、全身の凝りがすごすぎて30分では全然足りなかった。放置すると首が動かなくなったり起き上がるのが難しくなったりするからちゃんと通うといいですよ、と言われた。入社してからここ数ヶ月で自分の身体がどんどん凝っていっていることに危機感はあったので、セールストークだと流すことはできなかった。整体かマッサージに通うことを考えたいと思う。

 

マッサージの帰りに軽く買い物をして、近かったので母校の大学の近所の喫茶店で本を読んだ。現代思想の反出生主義特集。積読の中から引っ張り出してきた。隣の席で、恐らくわたしと同じ大学、学部の学生たちがお茶をしていた。ゼミか講義かサークルか、読書会の話をしていて、羨ましいな、と思った。わたしはこの喫茶店が本当に好きだけど、もうわたしは大学生ではないということを思い知らされるようで、今日は少し気持ちが滅入った。

学生時代、よく空きコマや講義の帰りにここに寄って、本を読んだり課題をしたりした。何度も友達や先輩と連れ立って来て、ケーキをシェアした。このお店のコーヒーも手作りのケーキもすごく好きで、ここで過ごす時間が大学で過ごす好きな時間のひとつだった。でも、残念ながら、学生時代の思い出の場所は学生でなくなってから来てみると、今との違いをまざまざと感じさせられるようで、ここに来られる喜びを以前のようには感じられなかった。戻りたいと思っても実際に戻れるわけではないので、戻りたいと思うことには意味を感じられない。だから、あの頃に戻りたい、とは思わない。でも、学生というあの時間の素晴らしさについてはよく考えてしまう。楽しかったな、あの時間があってよかったな、と思うと同時に、あの頃よりずっと何もかもを楽しめなくなってしまった今について、考える。当然のことなのだろうとは思うけれど、今、あの頃とは生活も流れる時間も全く違う中にいる。わたしの生活と時間を構成する全てのものの形とその材質とその手触りが違っている。わたしはまだ、その変化についてゆくのに精一杯で、その違いを受け入れることも楽しむこともできていない。横の彼らが楽しそうにあれこれと話しながら店を出て行くと、全身から力が抜けるような虚しさに襲われた。

もちろん、学生の頃は学生なりに生きるのがつらかった。よいことばかりではなかった。でも、やっぱり知らないことの方が多くて、無責任で、守られていた。自分のしたいように選別する我儘が許されていて、制限の中にはあったけど、生きたいように生きることを許されていた。その段階はひとまず三月に終わったのだと思う。簡単に選んだ選択肢を変えられない/変えられないように感じることが、こんなに閉塞感を感じるものだとは思わなかった。けれど、それが一人で生きていくという責任で、本物の自由の重さなのかもしれない、と思う。わたしはまだ自分を変えることができなくて、この生活を愛せるまで、もう暫く時間がかかりそうだ。

 

帰り道、明るい時間に駅から家までの道を歩くのは久しぶりで新鮮な気持ちになった。どの店もシャッターが上がっていて、店先が明るい。それに少し嬉しくなる。週に5日働いていると、週末の2日だけでは休んだ気が全くしない。この少し長い休みでどれくらい自分を癒すことができるだろうか。今週の始めにあった人事面談で、自分でもびっくりするほど泣いてしまった。今は、波打ち際で、寄せては返す波に何度も足を取られそうになりながら、その憂鬱や息苦しさから目を逸らして、空ばかりを見上げているような日々の中にいる。そうしてやり過ごすだけの日々は慣れが解決するのか、それともこのまま深く呑まれるのか、まだわからない。8月11日。真夏は盛りの真っ只中を通り過ぎている。わたしは、先の自分が果たしてどこをどんな状態で歩いているのか皆目見当もつかないまま、ただ毎日を歩いている。青い空の下、厳しい日差しを受けて、2022年の夏を歩いている。