わたしの王国

引越し翌日の朝、南向きの大きな窓からたっぷりと朝日が差し込む部屋で、段ボールと荷物に囲まれながら、淹れたてのコーヒーを啜る。新しく眩しい光の中で、窓の向こうに続く、見慣れない、けれどなんでもない景色を眺めながら、ふと、いま座っているここはわたしの王国だ、と思った。ここは、この家は、わたしが手に入れた最も美しいもののひとつになる。ものすごく大きくはないけれど、決して小さくはない、両の掌におさまる、ちょうどいい大きさ、わたしの国。ここをきっと愛するようになる。大好きになれる。ここはわたしの魂を大丈夫にしてくれる家になる。 

 

 

大学3年になる春にこの街に越してきてからもうすぐ4年が経つ。先日、3年と9ヶ月を共にした一つ目の家とさよならをした。

築年数は忘れてしまったけど結構古かったはずだし、お風呂とトイレが一緒で、収納もないワンルームだった。とにかくこまめな掃除が苦手なわたしはバスルームがいつも汚いのが本当にいやだった。収納がないせいで、実家から持ってきたクローゼットがいつも洋服で溢れていたのも窮屈だった。ベランダがないので狭い部屋に部屋干ししかできないのも不便に感じていた。でも、初めての一人暮らしを一緒に始めてくれたこの家のことが、ものすごく大切で、ものすごく好きだった。

大学3年の春、やっとの思いで実家を出て一人暮らしを始めたわたしにとって、「自分の家」という場所はかなり特別だ。親との折り合いの悪さから、誰にも干渉されない場所で自分一人の家で暮らしたい、とずっと思い続けてきた。そして、親の力を借りずに、できるだけかれらから遠いところで、早く完璧に自立したい、というのが二十歳過ぎのわたしの最も切実な願いだった。それが叶ったときのあの気持ちの素晴らしさたるや。深い充足感と幸福感。自分の生活を自分の責任で作り、歩いていく日々は、わたしがずっと欲しかったものだった。本当に嬉しかったことをよく覚えている。あの頃のことを思い出すとき、坂元裕二脚本のドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう*1の主人公・杉原音の台詞を思い出す。わたしよりも遥かに劣悪な実家・北海道から東京に逃げ出してきた音ちゃんは、雪が谷大塚にぼろい木造のアパートを借りる。上京から何年経っても音ちゃんが住み続けているその部屋のことをあまりよく思わないようだった伊吹に、音ちゃんは言う。

 

「この部屋はね、わたしが東京出てきて、自分で手に入れた部屋なの。(中略)たいしたものないけど、どれも自分のもので、自分で自由に出来るものなの。それってわたしにとって、すごく大事なことなの。」

 

それって、自分で自分の人生を生きている実感を得られるということだ。家族や実家という共同体が、共に生きていく拠り所ではなく、窮屈に囚われるだけのしがらみになってしまったわたしたちにとって、それがどれだけ救いであるか。わたしにとって、「自分の家」があることは自分の人生を生きているということの証左になっていた。だから、一人で家賃や水道光熱費を支払い、生活をし、わたしの東京での一人きりの暮らしを支えてくれていたこの家が、ものすごく、大事だった。

同じドラマで曽田練の職場の上司が言う台詞も、わたしの「自分の家」の考え方の指針の一つになっている。

「ふるさとっていうのは思い出のことなんじゃない?」「思い出がある場所は全部ふるさとよ。そう思えば、帰る場所なんていくらでもあるし、これからできるのよ」

この家は、実家を出たわたしが初めてちゃんと帰りたいと思えた家で、実家を出ても帰る場所を作ることができると教えてくれた家だった。そんな愛するお家と4年を区切りにお別れをした。笑ってしまうかもしれないけど、最後に空っぽになった部屋を眺めていたら、少し涙が出た。この3年と9ヶ月、わたしと共にあってくれてありがとう。わたしの人生の一部でいてくれてありがとう。わたしに、一人で生きていける実感をくれて、ありがとう。

 

家に纏わる言葉たちの中で、もうひとつ好きなものがある。韓国ドラマ「シスターズ」*2で、三姉妹の大伯母さんが長女インジュに言う台詞だ。

「全てを失ってもこんな家さえあれば、初めから、やり直せる」

最終話では、インジュがその家で、

「私は私の魂が生きる家が欲しかった。この家に受け入れられたと感じた瞬間、全てが大丈夫だと思えた」

と思いを紡ぐ台詞もあって、それもすごく好き。わたしもそういう家が欲しくて、そういう家に出会いたくて、そういう家で暮らしたくて、堪らなかった。ずっと。今回は縁あって、かなり広い家に越すことになった。前の家では買えなかった、ソファーと大きいラグと本棚を買った。ソファーはヴィンテージのものを探して、布地が緑ベースで足が丸く少し猫足になっているものを買った。(ものすごく可愛い。引越して三週間近くが経つけれど、いまだに見るたびに新鮮に可愛いな〜と思う。)中の様相を整えることが全てではないけれど、この家を愛するために、やりたいことはなんでもしたい。ちゃんと、魂の生きられる場所、そういう家にしたい。

 

 

夕食を取った後、ベランダに出て、煙草を吸う。わざわざコートを着て、寒さに震えてまで吸うほどかと言われるとわからないけれど、でも、案外この時間が好きだ。前の家にはベランダがなかったので、キッチン横の小さい窓から顔を出して吸っていた。ちゃんとしたベランダが付いているのも新しい家の好きなところ。遠くのマンションの規則正しく並んだ明かりが見える。気温が低くなる夜は、くすんだ空にオリオン座がかろうじて見える。わたしはこの大きな窓から見える景色を、ベランダから見上げる少し広くなった空を、また愛するようになるのだろう。確信めいて、そう思う。めまぐるしく過ぎてゆく、時に優しく、時に厳しく、時にくるしい日々の中で、家だけはわたしのためにあると思える。わたしを守ってくれる。わたしをそこに置いてくれる。そう信じられる。わたしはわたしの王国をまた愛していく。

 

 

*1:2016年冬クール放送のテレビドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(フジテレビ放送)脚本:坂元裕二

*2:2022年Netflix配信のドラマ「シスターズ」(tvN放送)脚本:チョン・ソギョン/シスターズ | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト