春のこわいものたちについて

室内で聞く雨の音が好き。時々、通りを走る車が水を裂くような音を出して遠ざかっていくのも好き。雨を見るのは、ここのところ、あまり好きじゃない。どうしてか、気分が沈むから。その青灰色のトーンが落ち着く時もあるけど、今日はなんだか虚しい気のする雨だ。はやく目を瞑って眠りたい。雨が落ちる、この穏やかな音を聴きながら、できるだけ時間をかけずにすんなり眠りに入ってゆけますように。

 

秋は死にたくなるけど、春はただ目を瞑って視界を閉ざしていたい季節だ。梅も桜も柔らかい春風も、真新しく見える世の中も別に嫌いではない。むしろ陽のある時間が増えたことで、身体も精神も確実に元気になっているような気がする。春になると芽吹く植物の如く。でも、やっぱり春はわたしにとって、どこか恐ろしく、できることなら目を瞑っていたい季節だ。

なぜ春は目を瞑っていたいと思うのか、考えを巡らせていると、川上未映子の小説の『春のこわいもの』というタイトルを思い出した。春のこわいもの。春。こわい。小説のタイトルの言葉選びが印象的なのもあるけれど、やはりこの2語のセットのイメージはわたしの実感に近いのだと思う。わたしは春に対して言い知れぬ恐ろしさを感じている。それは何かと「新しい」というイメージが付されるがための、それに対する不安のことなのか、あるいは他の何かなのか、わからないけれど。

ふと思い出した勢いでその小説をぱらぱらと読み返していたら、四つ収録されている話の一つ目の『青かける青』という物語の内容に強い既視感を感じた。一通の手紙の内容のみのとても短い話なのだけれど、メニエール病なのか、めまいと頭痛の病気で入院している女性のものの感じ方が、いやに休職していた頃の自分を思い出させた。

 

「ときどき、自分はどうやって生きていくんだろうな、というようなことを考えます。それは将来とか仕事とか、そういうみんなが考えるような具体的なことではなくて、なにかもっと漠然とした、居場所のようなものです。」

「まるで脳みそのほうが、こんなわたしに付きあっていられないといってわたしの意識から離れたがっているんじゃないかと思うくらい、ここに来てから、わたしがわたしでいる時間は短くなっています。まるで、歩けなくて、車椅子に乗っている人の脚から筋肉がなくなっていくように、わたし自身から、少しまえまでわたしにあった、なんとかまっとうに生きていくための筋力が少しずつなくなっていっているような感じがします。でもそれは、誰かに奪われたとか、もともと与えられていなかったとかそういうんじゃなくて、ぜんぶ自分でやっていることのような気がするんです。病気になったのはわたしのせいじゃないんだけどね。でも、自分が自分に、なんだか毎日、取り返しのつかないことをしているような、そんな気持ちがします。」  

川上未映子著『春のこわいもの』新潮社)

 

 

もっと明確に、辛い、や、痛い、悲しい、という言語化しやすい感情であればわかりやすかったと思う。でも、あの頃、昨年末の一月半は、もっと漠然とした、無力感や虚脱感のようなものに覆われていた。それを直視するとひどい不安感に襲われるので、できるだけ見ないように見ないように遠ざけて、遠ざけるために眠って、眠って、時には物語に没頭した。時々、先のことや仕事のことを考える。その度に、わたしは日々、とんでもない、取り返しのつかないことをしている、という思いに取り憑かれてどうしようもなくなった。全身から、「普通」に、「まとも」に生きていく力がどっと抜け落ちていくような、そんな感じがずっとあった。

休職して丸二ヶ月と少し、戻ってみれば、案外うまくやれたりしたのだけど。あの頃は、不思議な、隔絶された場所で不安定に浮かんでいるような心地だった。それは確かに、入院と似ていたのかもしれない。

 

実際、復職後は、思った以上に仕事にうまく戻れていて、かなり驚いている。春という陽の光の多い季節がそうさせているのか、わたしに必要だったのは仕事を休むというただけそれだけのことだったために、それが功を奏したのか。なぜこうなっているのか本当にわからないし、予想だにしなかった状況なので、自分に対してかなり懐疑的な気持ちだが、何よりも、問題ない、というよりはむしろいい、という実感がかなり確かだ。むしろ転職活動のほうが、自分のメンタル的にも、進捗的にもうまく進まず、とりあえず一時中断しようかと考えているところ。一度手酷く失敗した分、仕事との付き合い方、仕事をしている自分との付き合い方もわかってきたので、今は恐る恐るそれを試している日々だ。

 

いつの間にか、雨が止んでいる。道路はまだ濡れているのか、車が通ると水の音がするのが心地良い。今日はひどい低気圧で一日中頭が重くてとてもつらかったけれど、気圧のアプリを見ていると、明日は少しマシになりそうだ。明日は、昨日今日と行こうと思って結局観に行けなかった映画を観に行こうと思う。休日に映画を観に行く元気が出てきたのも最近のことで、それもうれしい。どうか春への恐ろしさがわたしを大袈裟に脅かすことなく、一日一日を穏やかに積み重ねられることを祈るばかりだ。ドラマティックな幸福はいらない。むしろそれはこわい。ただ、自分を追い詰めて傷つけることなく、毎日をそれなりに健やかに過ごせますように。来週も再来週も一ヶ月後も、そうありますように。今はそうして祈るように、先のことを見つめ、考えている。