2023年 映画のはなし

密かに100本観るのが目標だったのだけど、12月31日の今日、92本で着地しそうだ。週5で会社員をやり、友人と予定があれば出るけれど予定のない土日は出不精になりがちでありながら、よく観た方なのではないでしょうか。と自分を褒めておくことにする。年始から年末までいろんな特集上映があって、いろんな新しい映画との出会いがあって、本当にありがたかったし、たのしかった。

昨年のブログからもわかる通り、わたしは新旧ごちゃごちゃに観るので、今年のベスト映画も今年公開の新作に限りません。

 


シャンタル・アケルマン「家からの手紙」「一晩中」「ジャンヌ・ディエルマン」「囚われの女」

昨年に続き、シャンタル・アケルマンの特集上映。今年一番熱い特集だった。春の特集上映だけでなく、配信でも何作か観て、どの作品でも素晴らしい映画体験を得られた。今年多くのアケルマン作品に出会って思ったけれど、わたしはグザヴィエ・ドランの映画が世界で一番好きで、その次にシャンタル・アケルマンの映画が好きだ。

中でも個人的に印象的だったのが、下記4作品。

 

「家からの手紙」(1977年)

地元ベルギーに残る母とニューヨークに出て行った若きアケルマンの一言では言い難い複雑で微妙な母娘の関係性が、ニューヨークの街並みを映す長回し映像と共に浮き上がる。実際に母から届いていた手紙をアケルマン自ら読み上げるという構成も生々しくて、面白い。何より、これは愛である、と提示されるものを愛としては受け取れない時、愛と受け取らない側が罪な気がしてしまう肉親との関係について、自身の個人的な経験ともリンクして、何度か思い出してくるしくて、泣いた。

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「あなたの幸せが一番です」本当にそう思ってくれるのなら、わたしが選ぶ幸せが幸せだと一緒に信じて欲しい。ちゃんとわたしは幸せになる力があるし、もし間違って転んでも大丈夫だよ。押し付けずに、どうかただ、願って欲しい。

 

「一晩中」(1982年)

音楽が美しい。若い恋人たち、夜中のデートに出かける中年の夫婦、こども、眠りこける夫と家出を目論む主婦、幸福な夜を過ごすゲイカップル、はたまた駆け引きの中にあるレズビアン(らしき)女性たち……。街の日常に埋もれるそれぞれの夜が延々と続く。恋人を見送った翌朝の青年が、起きて、煙草を吸って、それからまずはじめにすることが恋人に手紙を書くことで、それがすごくよかった。度々フォーカスされた家出の女性は、ジャンヌ・ディエルマンを思い出させた。幸福も不幸もなんでもないように散りばめながら、ジェンダーロールの抑圧など、社会的な問題への眼差しが作品を貫いているところは、アケルマンらしく、よいところ。

 

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」(1975年)

去年に一回目のアケルマン特集上映で観て衝撃を受けた作品で、去年もベストに入れているのだけど、今年も早稲田松竹の再映で観て、やはり最高の映画体験だったので今年のベストからは外せない。2本立て併映の「WANDA」との相性が抜群で、早稲田松竹って改めていい映画館と実感。今年も大変お世話になりました。引越しはしたけど全然遠ざかっていないのでまた2024年もたくさん通います。あと、アケルマンは本作を24歳の時に撮ったと知って心底震えた。恐ろしい才能……。

やはりあのラストシーンの長回しが壮絶で、衝撃的だ。あの息の詰まるような数分は、わたしたちに突きつける。ああすることでか、"母"や"女"でない自分になることができない、その性役割からの逃れられなさ。個人ではなく、個人を取り巻く社会そのものが、彼女をただの"彼女"でいさせないということについて、考えずにはいられない。この、沈黙で痛烈に語る、性役割の窒息しそうなほどの窮屈さは、「サントメール ある被告」にも通ずるところがあるかもしれない。女性監督たちの力強い意志と創作の力を感じてエンパワメントされると共に、1975年と2023年の問題意識の観点に大きな変化がないことに、その社会の実情に、辟易もする。

僅かに身じろぎするときの衣擦れの音がかすかに響くのみのあの時間、わたしたちは彼女の動揺やくるしみや解放感や絶望、喜びを感じ取りながら、考えることを迫られる。痛いほど切実に問うてくるものを、取りこぼさず受け取らなければいけない。

ジャガイモを剥くジャンヌ・ディエルマン。背景と衣装の配色が美しい。

 

「囚われの女」(2000年)

初期アケルマンばかり観ていたので、後期アケルマンも観てみようと思って配信で観た作品。

あまりにも美しい映画で劇中何度もため息が出た。本当に素晴らしい。恋も愛もそれに付随する執着も、個人的にあまり関心がないので物語の大筋は好きでもなんでもなかったのだけど、丁寧に繰り返され、美しく残酷に描写される登場人物たちのディスコミュニケーションが素晴らしかった。その伝わらなさ、傲慢さ、独り善がりなところ、徹底的にわかり合うことができない虚しさ、諦念、絶望感……。アケルマンの容赦のないところが好き。

同時期に観た「オルメイヤーの阿房宮」も大変によかった。またアケルマンが映画館でかかる日が来たら、この2作は絶対に映画館で観たい。

 

 

三宅唱「ケイコ 目を澄ませて」「きみの鳥はうたえる」「ザ・コクピット

アケルマン同様に、今年は個人的に、三宅唱と出会い魅了された、三宅唱の年でもあった。ケイコに始まり、配信で「きみの鳥はうたえる」を観て衝撃を受け、早稲田松竹の特集上映も有休を取って未見の計3作品を観た。今、作品を並べていて思ったけれど、わたしは沈黙が美しい映画が好きなのかもしれない。三宅唱も、言葉で語るより、沈黙や表情、あるいは表情すらも見せない方法で語る映画作家だと思う。


「ケイコ 目を澄ませて」(2022年)

封切り後に新宿で一度、そのあと早稲田松竹の特集上映で一度、計2回観て、2回とも本当によかった。

地道に淡々と積み重ねていく日々の、地味で無感動なその感じが、とても丁寧に描写されていた。物語なのだから、フィクションなのだから、ドラマティックな展開やわかりやすい喜怒哀楽や印象に残る台詞が必要な時もあると思う。でも、そういったものに多く頼らずに、静かに淡々と、でもとても豊かに演出された映画だった。ケイコがこれからも積み重ね続けていく日常は、わたしと決して交わらないし共通点もない。わたしはケイコに個人的な共感はなく、全く別の人間に感じているし、そういう意味ではケイコというキャラクターとの距離は遠い。でも、その積み重ねという地味で孤独な作業はわたしの日常でも続いている。その退屈なさみしさや、そのなかで不意に、会長のような人たちと交わったときの眩しいほどのうつくしいよろこびについて、わたしも知っている。うまく言い表せないけれど、その遠いようで近いようなケイコとの距離感と映画のラストが、どこか心強く感じて、とても好きだった。

 

きみの鳥はうたえる」(2018年)

こういう、若い男女の性欲と不誠実な恋愛を混ぜたみたいな日本映画のことが全然好きじゃないので敬遠していたのだけど、三宅唱ファンの友達にゴリ押しされて観た。結論、度肝を抜かれる素晴らしさだった。

ケイコにも通ずるところはあるのだけど、この監督の、言語化に頼らない、あくまで言葉にしきろうとしない姿勢が本当に好きだ。(監督本人がどのくらい意図しているかはわからない。)言葉にしきらないということは、明確にわかりきらないということにも繋がるのではないだろうか。本作でも、あくまで三人が三人ともお互いのことを理解しきらない描写がすごくよかった。切り返さない会話のショット、全部言い切らない台詞、無言のかれらの表情に何度も何度もよるカメラ……。みんな大好きだと思うけど、石橋静河演じる佐和子のカラオケの歌唱シーンがものすごくいい。佐和子の歌声に、染谷将太演じる静雄の口遊む声が少し被るところまで、猛烈にいい。

 

「ザ・コクピット」(2014年)

わたしは日本語ラップどころかヒップホップ含めて音楽のこともなにもわからない人間だけど、とても楽しい映画だった。延々と続く音作り、短い言葉の応酬、コミュニケーション、手作りのゲーム、リリック、笑い声、狭いワンルームの床に落ちる日差し、みんなが肩を寄せて一つの音楽をじっと聴いているあの空間の、胸が熱くなるような素晴らしさ。ラストの車窓から流れていく景色の長回しが本当にすごくて最高な気分になった。ため息が出た。こんなに最高なことある…?!と信じられないような気持ちで映画館を後にした。

 

 

アリス・ディオップ「サントメール ある被告」(2022年)

今年、最もわたしの核に迫る、個人的な映画体験を作ってくれた映画だった。感想、考えたことなどは先日のブログに書いています。

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今また気づいたけれど、これも沈黙で語り、沈黙が美しい映画だった。私が最も尊敬している映画文筆家の児玉美月さんは今作の公開に寄せて、「セリーヌ・シアマは『これは私たちの時代の"ジャンヌ・ディエルマン"』と賛辞を送るが、シャンタル・アケルマン同様、今後間違いなくアリス・ディオップは映画史で言及されつづけることになる。」とコメントを寄せている。もちろんパンフレットの評もとてもよかった。アリス・ディオップ、今後も注目していきたい監督だ。

 

 

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」(1985年)

今年は常々観たいと思っていたヴァルダの作品たちにもしばしばタイミングが合って出会うことができた年だった。

アケルマン同様、ヴァルダもフェミニストで、社会的な視点を常に持って映画を撮る映画作家だ。ただ、ヴァルダが他の作家と少し違うのは、観客への問いかたのように思う。「冬の旅」は、端的に感想を言うならば、非常に厳しい映画だった。内容や結末はさることながら、何よりも、観客に決して安易に同情させない、その毅然とした距離感がわたしたちにこの物語をどう受け取るか、静かに、厳しく問いかけていたように思う。

この映画を観ながら、渋谷区のバス停で殺された女性ホームレスの事件を思い出していたし、同時に香山哲さんの漫画『ベルリンうわの空』のことも考えていた。何かしらの支援が必要な人に相対するとき、不用意な距離感で同情して対象の人々を他者化して終わってしまうのではなく、誠実に理解するように努め、自分にできることを探らねばならない。同じ地続きの社会に生きる他者として、モナやモナの生き様をどう眼差すか。ヴァルダはモナを通して淡々と問いかけている。

 

 

ピエール・エテックス「大恋愛」(1969年)

「大恋愛」のベッドカー走行シーンがとにかく面白く、今年観た中で一番の映像だった。最高です。

ベッドカーの走行と渋滞。面白すぎる。

ピエール・エテックス演じるおじさんはフランス映画によく出てくる気持ち悪いおじさんで全然好きではないのだけど、こんな映像が1969年の映画界にあったことがただ面白くて最高だった。ピエール・エテックス作品に共通して言えることだろうけど、エンターテイメント性が高く、テンポの良いコメディタッチの物語展開もとても良い。脚本も演出もファッションやインテリアなどの美術もクリエイティヴィティに富んでいて、世界観の作り込みの細部までのこだわりが素晴らしく、観ていて本当に楽しかった。ウェス・アンダーソンあたりは彼にいくらか影響を受けているのかもしれないと思う。  

 


ウルリケ・オッティンガー「アル中女の肖像」(1979年)

オッティンガー特集上映のうち、他2作はアート映画の色が強く、やや難しかったけれど、これは比較的内容も面白く観られた。タベア・ブルーメンシャイン演じる女が、滅多に微笑まず、媚びず、怯まず、何にも囚われることなく、ただただ酒を飲み、酩酊していく様が清々しくて、力強さすら感じる。彼女の振る舞いだけでなく、彼女の描き方そのものが従来の女性像を破壊するという意味でフェミニズム表象になっていて、好きなフェミニズム映画のひとつになった。そして、タベア・ブルーメンシャインの衣装が本当に本当に本当に素晴らしい。

冒頭、空港に降り立つタベア・ブルーメンシャイン。真っ赤なコートに真っ赤な帽子、白い手袋と白いパンプスという鮮烈な配色のスタイリング。



ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーマリア・ブラウンの結婚」(1978年)

衣装スタイリングが良くて、かっこいい女が自分の人生を切り拓いていく映画なんか好きに決まっている。

いろいろな見方があるだろうと思うし、マリアの自立性やその結果を肯定することは資本主義におけるマッチョイズム的価値観の肯定になるかもしれないけど、でもそれでも、痛快な程にきっぱりと自立して、キャリアという元来男社会であったはずの場所で完璧にのし上がっていくマリアの生き様は観ていてエンパワメントされた。しかも、それが、キャリアそのものに意義を見出しているのではなく、むしろ手段で、理想の「結婚生活」をかなえるためという目的意識の元、首尾一貫しているのもおもしろい。自立的なマリアが言う「あなと一緒に生きていきたい」は、現代的な結婚の価値観に思えて、それもこの映画を好ましく観られた理由の一つ。

 


マシュー・ロベス「赤と白とロイヤルブルー」(2023年)

設定やストーリーはもちろんフィクションで御伽噺ではあるのだけど、セクシュアルマイノリティカップルを描く御伽噺として、根底の認識全てが正しくて、大変良かった。主に素晴らしくて大好きなのは、大統領である母へのカミングアウトシーンと、ポイントとなるシーンではないかもしれないけれど、二人を祝福する市民たちがプライドフラッグを振っているシーン。いわゆるラブコメBLにカテゴライズされるようなエンタメで、あんなにたくさんの市民が持つプライドフラッグが見られるなんて。一気に実社会のプライドパレードなどと景色がリンクして、そこだけでかなりエンパワメントされて泣けてしまった。超フィクションも好きだし、それはそれでいいのだけど、実社会への目配せを読み取れる、地に足ついたエンタメが本当に好きだ。

 

 

 

2023年は、わたしが最も尊敬し愛する映画作家グザヴィエ・ドランが映画制作の活動を辞めると公に宣言した年でもあった。いまだにショックだし、あまり上手に受け入れられていなくて、涙が止まらなくなるときもある。わたしの20代前半の本当に大事な部分を支えてくれて、救ってくれて、時に輝かせてくれて、決して言い過ぎではなく、人生を変えてくれた映画作家とその作品たちだった。ドランの映画たちに出会っていなかったら、わたしは自分の痛みとこんなにちゃんと向き合えていたかわからないし、こんなにその痛みを克服できていなかっただろうし、こんなに映画を好きにもならなかったと思う。ドランが作ってきた作品一つ一つがわたしにものすごく大きな影響を与えてきた。最早、この思いは尊敬や敬愛よりも、信仰にやや近い。わたしにとって、神様みたいなひとだった。

まずは、そんな映画作家に二十歳よりも前に出会えたことに感謝している。わたしの20代前半を一緒に作ってきてくれたことはもちろん、「わたしはロランス」では大学の卒業論文も書かせてもらった。(本当に自分の人生に重要な体験だった。)監督業を辞めるという事実そのものを、感情の部分で受け入れるにはまだ時間がかかるかもしれないけれど、でも、他の大事な人たちとおんなじように、あなたには健康で、幸せでいてほしい。願わくば、嫌なこと、辛いことからはできるだけ距離をとって、喜びにあふれた毎日を送ってほしい。だから、そのために映画監督を辞めることが必要なのであればそれは仕方のないことだと思う。超商業的なエンタメ産業において、金銭的、経済的な苦難というのが生易しいものではないことも全く想像に難くない。またいつか、つくりたいと思ってくれることを淡く期待はしているけれど、何よりもこれまでたくさん走ってきた分、安らかに健やかに日々を過ごしてほしい。

 


運良くわたしのところにはいつもどおりの年末がやってきた。けれど、ウクライナとロシアの戦争は終わらず、ガザの恐ろしいジェノサイドも今なお続いている。本当に言葉にできないくらいに残酷で悲しいことが起きている。日本においても、物価高に増税と苦しい思いをしているひとが多いのではないかと思う。暗澹とした季節の中で、正直わたしも日々を生きるのに精一杯だ。できることは限られているけれど、ひとつひとつできることをやらなければいけない、と思う。どうか、一刻も早く停戦され、傷ついた人々に穏やかな日常がやってきますように。全ての戦争が終わって、あたたかい春が全ての人にやってきますように。2024年も、そう、心から願ってやまない。