「夜明けのすべて」鑑賞後記

明けない夜はない、という言葉が好きではなかった。10代の、思春期ど真ん中で精神的に最悪かつどん底だった頃、母がよく言い聞かせてきたからだ。文字通り、目の前が真っ暗に閉じて、良いように開けてゆく未来を想像もできなかった時、その言葉は励ましでなく、そう信じるように強く強制されているように感じて、受け入れ難かったのを覚えている。これは今も変わらない考えなのだけれど、わたしは、全てがいつか必ず良いように進む、という言説にも懐疑的な方だ。それを信じたい人はそれでよいと思うけれど、万事が万事、そのように着地するわけではないことを経験してきたので、易々とその言説に乗ることはできないし、そうしたくないときがある。だから、この言葉は好きではないし、そう言いたがる作品のことも好きになれないかもしれない、と思っていた。

 


三宅唱監督の最新作「夜明けのすべて」を観た。

藤沢さんからもらった自転車に乗った山添くんが、西陽の広がる街の中に漕ぎ出していくシーンのことを、何度も何度も反芻する。夥しい光の粒子たちが溢れるように画面いっぱいに広がる、美しい西陽の、その光の方向へ、光の中へ、彼は進んでいく。街の中を走る山添くんを度々カメラが正面からバストショットで捉える。少し上を向いて空や木漏れ日を仰ぐ彼の顔に、陽光が差したり、影が落ちたり、繰り返される。彼は穏やかで、すこし晴々とした表情で光を受け止めている。未だ、電車にも乗れず、美容院へも飲食店へも入れない彼の、これは一つの大きな前進であるからだ。こんなにいいシーンに久しぶりに出会ったような気がした。16ミリフィルムで撮影されたという映像が、西陽の強い光を柔らかく、あたたかく、映している。その光の大きな海の中に漕ぎ出していく山添くんの背中。これから先も、何度もこのシーンのことを思い出すだろうと思った。

この映画は、PMSに苦しむ藤沢さんと順風満帆の人生で突如パニック障害になってしまった山添くんが、栗田科学という中小企業で同僚として共に日々を過ごしながら少しずつ前進していく話だ。わたしは二人のどちらにも少しずつ近しいものを持っていて、それゆえにいろいろなことを思い出しながら観た。恐らく会社の激務から心のバランスを崩した山添くんと同じように、わたしも一昨年、いろいろなことが重なって、ある日突然仕事に行けなくなってしまった。藤沢さんと同じようにPMSにも長年苦しんできた。藤沢さんを見ていると、わたしはまだコントロールできるほうだったのかもしれないし、幸いにもピルを飲むことができる体質だったので全く同じとは言えない。けれど、PMSや生理などで自分の心身が侭ならなくなるせいで、うまくいかなかったことはたくさんある。生理の一週間前ぐらいになると、突然、心が手綱を離した暴れ馬みたいになった。あるいは、安全バーも制御装置もコントローラーも稼働スイッチもないジェットコースター。急降下して落ちていく先が強い希死念慮であることも度々だった。今は低容量ピルを飲み、婦人科に通院しているので、だいぶんマシになったけれど、それまではそこそこにしんどい思いをしていたように思う。生理やPMSのそういう、きっと少なくない女性が抱えている苦痛やままならない身体へのもどかしさ、悔しさ、やるせなさが、具体的に描かれていたのは新鮮だったし、当事者としてうれしく思った。

一方で、共感できる要素がありながらも、登場人物一人一人を不可侵の別個の存在として描き、観客と距離を置かせて描くのが三宅唱のうまいところだ。単純に同情もさせないし、易々と自己投影もさせないし、観客のわたしたちだけでなく、劇中のかれらすら、互いのことを決してわかりきらない。これは、「きみの鳥はうたえる」「ケイコ 目を澄ませて」でも同じようなことを感じた。映画制作の技術がますます発展する現在、通常の物語映画ではカメラの不在が重んじられているように思う。会話のシーンではしっかり切り返され、ストーリーを円滑に進めるために作為的にカメラは動き、私たちは映画という映像よりも、物語に没入していく。物語に没入していく中で、わたしたちは登場人物について、物語に必要な全てを知ることで、かれらを同一視するか、あるいは神の視点でかれらを見つめることになる。しかし、三宅唱の映画では、会話シーンにおいて、切り返さないショットが度々目立つ。登場人物の表情も映しきらない。「ケイコ」では特にその横顔や背中を見つめさせられるシーンが多かったように思う。説明的な台詞も少なく、大きな山場もない淡々とした映像の中で、登場人物たちの、きっと本人たちにとってはありふれた日常を、わたしたちはただ見つめる。同一視をできるほど近くなく、神の視点で観ることができるほど遠くない。関係性のない隣人のような距離感で、かれらの生活や人生をただ、見つめることを受け入れる。本作でも、2人のケータイのメッセージのやりとりの内容を映さず、ケータイの画面を見つめる2人を交互に映すシーンがある。かれらの表情だけで、どんなやりとりがなされているかを描写する、素晴らしいシーンだった。一方で、わたしはかれらとは異なる他人である、ということを再認識したシーンでもあった。彼の映画を観るたびに、思う。わかりきることは必ずしも必要なことではなく、わからないままでいることが心強く、美しいこともある。藤沢さんと山添くんの"不十分な"描写は、むしろ言語化すると遠ざかってしまうような感情や感覚の共有に繋がっているようだった。わたしはかれらのことをよく知らない。映画は2回観たけれど、かれらの痛みもくるしみも、喜びも希望も全部はわからない。かれらが物語の外でどんなふうに過ごしているかも知らない。わからないし、知らない、ということを知っている。「ケイコ」のラストを観ながらも同じことを思った。観客たる私たちは、映画館の外で、淡々とした日常を、生活を、生きている。わたしたちの人生の中には、そうそう映画の中のような鮮やかな喜怒哀楽もないし、ドラマチックな悲劇も幸福もない。ただ延々と続く日々を地味に積み重ねていくことにしか人生はない。そのことが、そのままに、繊細に作り込まれて描かれているのが三宅唱の映画だ。藤沢さんの日常も、山添くんの日常も、わたしたちとおんなじように、一進一退しながら、淡々と積み重ねられて、続いていくのだ、とあの素晴らしいエンドロールを観ながら思った。それはとても心強い余韻だった。

 


ラスト、体育館でのプラネタリウムのイベントで、受付に一人座る山添くんは藤沢さんの朗読を聞いている。柔らかい表情で、宙を見つめたり、時々背後のプラネタリウムに視線をやるようにしながら、穏やかな表情で聞いている彼の顔の半分に、西側から差し込む光が、落ちる。朗読のラスト、藤沢さんは読み上げる。過去に自死で亡くなった栗田社長の弟が書き残した、「夜についてのメモ」。「喜びに満ちた日も、悲しみに沈んだ日も、地球が動きつづける限り、必ず終わる。そして、新しい夜明けがやってくる。」

劇中、度々差し込まれた、夜の街の景色を映すショットは、かれらの長い長い夜についての示唆でもあったのではないかと思う。山添くんが、夜、電気を消した自室で膝を抱えているシーンがある。わたしも、休職直前から休職期間中まで、ほとんど夜に眠れなくて、それ故にひたすらに夜が長かったことを思い出した。昼よりもずっと、夜の方が長い。途方もないほどに、長い。あの、じりじりとした焦燥感と絶望感に苛まれる、孤独な時間のことは、今でも忘れられない。病気が苦しい時期や今の自分を受け入れられない時期としての「夜」の比喩もあっただろうけれど、単純に、そういう、眠れない夜としての「夜」も示唆されていたように思う。けれど、ラストに藤沢さんは「必ず終わる」と言ってくれる。それは、きっと山添くんにとって、藤沢さんにとって、長い長い夜をたくさん耐えてきた二人にとって、ものすごく心強くて、あたたかい励ましになったのだろうと思う。そのことが、少し前のわたし自身と重なって、このシーンで涙が止まらなくなった。必ず終わる、そして新しい夜明けがやってくる。この台詞が、思わぬところで、過去とその過去を持つ今のわたしを、あたたかく抱き締めてくれた。ありきたりだけれど、このラストは、他でもない藤沢さんと山添くんの物語を土台にしてあるから、深い納得感とともに受け取ることができる。わたしたちは、永遠に終わらないような夜を彷徨い、その途方もない孤独に沈黙し、苦しみながら、それがいつか終わることを知っている。全てはいつか終わり、新しい夜明けがやってくる。それは、使い古された決まり文句的な展開ではあるのだけど、でもやっぱりそう信じていたい、と思う。そう信じて、あと少し頑張ってみたい、と思う。そんなふうに思える自分に出会えたことも、とてもうれしいことだった。

 


一度目は友人と、二度目は仕事帰りに一人で観た。一度目に観た友人は、また偶然にも近しい経験をした過去を持っていて、二人で映画館で立ち上がれなくなるぐらい、号泣した。彼女が、帰り道、わたしたちのための映画だったね、と言った。そんなふうに思える映画に出会えたこと、そしてそれを友人と同じ空間で共有し、同じように分かち合えたこと、なんという幸福か、と思う。一緒に映画を観て、一緒に泣いて、一緒に映画についてやそれ以外のことについて、言葉にした時間全部が、癒しであり、希望であり、あたたかい西陽に照らされるみたいな時間だった。手を繋ぎ、あたたかいハグをするような、満ち足りた、得難い映画体験だった。

 


わたしたちは決して楽ではない日々を生きている。この映画を観てから少し時間が経ったけれど、当然ながら、わたしの人生や生活がまるっと救われたわけではない。一年前に復職して、また同じ営業職に戻った。経験値が上がって、いろんなことに慣れてくると、案外ちょっとタフなふりをできるようにもなってきた。でも、心身のバランスがうまく取れず、蹲って立ち上がれない時期も度々ある。そういう時、あの西陽の光の中へ漕ぎ出していく山添くんの背中を思い出す。前職には戻らず、栗田科学で働きます、と言った山添くんに思わず涙ぐんだ辻本さんのあの涙を思い出す。山添くんをベランダから見送る藤沢さんの、揺れるカーテン越しの背中を思い出す。「夜についてのメモ」を思い出す。「必ず終わる。そして新しい夜明けがやってくる。」物語はすぐそばにある。わたしの歩く、長くくるしく、時に喜びできらめき、またさみしくなる人生の道の横に、この映画がある。そう思うと、もうすこし、夜明けを待って、歩けそうな気がする。じんわりと明けていく夜の美しさ、朝の素晴らしさを待って、歩き出せるような気がする。