「忘れる」/「忘れたい」

※『違国日記』10巻の一部内容に詳しく触れています。

忘れるということはうれしいことだと思う。忘れるという動作はほぼ無意識のうちに行われているので、忘れたということを自覚すらできないのが忘れるということだ。だから、厳密には、「忘れる」と「うれしい」という感情は完全に同時に成立することはない。つまり、忘れるということはうれしいこと、というのはロジックとしては少し奇妙だ。でも、ときどき、ふいに「忘れた」ということに気づいたとき、わたしはその状態の幸福さについてしみじみと考えてしまう。

別に何でもかんでも忘れたいわけじゃない。忘れたいこと、覚えていたくないことを忘れていたとき、記憶の中から消し去ってしまえたとき、うれしいという話である。思い出と記憶は違って、思い出はできるだけ長く覚えていたい。選ばれた素敵な記憶、それが思い出だ。繰り返す日常は大抵「思い出」にはならない。瑣末なことは記憶が形を留めておけない。もちろん、そういう日常も美しく、必要だ。しかし、記憶にはキャパシティがあって、わたしたちは日々を忘れることで新しい日を吸収している。だから、ときどき、よい思い出もそれらと一緒に忘れてしまったとき、それに気づいたとき、胸に穴が空いたような気持ちになる。それはすこし、むなしい。

でも、わたしには忘れたいことがある。忘れたい記憶や抱えている問題があって、それを忘れてしまうことができたらどんなによいだろう、と思う。だから、よい思い出を忘れてしまう空しさを知っていても、忘れるということはわたしにとって良いことだ。

しかし、この「忘れる」という機能は人間のとても賢い装置の一つだが、残念ながら、とても自然発生的な装置で、決して自発的に作動させることができない。本当に、心底、残念なことに。忘れたいから忘れられることはない。むしろ、忘れたいと思えば思うほど、願えば願うほど、わたしはその記憶や問題から目が逸らせなくなっていく。いつかそういう記憶を忘れられることもある。けれど、まだそうでないものもあって、わたしは、その記憶そのものだけでなく、それを忘れられないということにも苦しんでしまう。

だから、何度も言うが、忘れるということはうれしいことだ。何年も前にすごく辛かったことについて、なんとなくは覚えているものの、その輪郭ほどまでしか思い出せないとき、よかった、と思う。人間は過去を忘れて、未来へ進むようにできている。記憶は、水彩絵の具を水にといてその色を薄めていくように、時間と共に薄れていくようになっている。過去の日記や過去のSNSを見返したときに、その時の記憶や感情が色鮮やかに生々しく甦ってくることがある。それは、見返すそのときまでその記憶を忘れていたということだ。わたしはそれにすごく安心する。心の底から安堵する。わたしにも、ちゃんと「忘れる」という装置は備わっている。だから、きっといま忘れられないとじたばた苦しんでいるこの記憶ともいつか決別できる日が来るだろう、と。

 

わたしが大好きな漫画『違国日記』10巻が今週発売された。毎巻毎話、自分の大事な心の柔らかいところについて、何か気付かされたり慰められたりして涙しているが、今回もまた印象的だった。

主人公の朝は、事故で亡くなった父が自分を愛していたか、ということについてずっと考えている。「なんかずーっとわかんなくて考えちゃうこと」「いつまで考えちゃう 考えなくちゃいけないのかな」「いつ忘れれる?」という彼女の問いかけに、彼女のおばである槙生は「……解決しない問題というものは……ある」と答えた。朝はその返答をその場しのぎ、と言ったが、わたしは問題に対するひとつの向き合い方、付き合い方としてその回答が腑に落ちた。腑に落ちた、というか、ずっと考えてしまうこと、忘れられないことを無理にどうこうせずに、そういうものとしてそこに置いておいてもよい、ということがごく自然に受け止められた。

この「解決しない問題」について、朝の高校の社会科の教師はSDGsと言い換えてみる。持続可能な開発目標。解決しないから持続しなくてはならない。その次のページに、これまでに登場した登場人物たちが並ぶ。左から、笠町、えみり、千世、そして槙生。それぞれ、今すぐに解決しない問題を抱えていることがこれまでに描かれてきた人物たちだ。両親、セクシュアリティジェンダー女性差別、家族や、現代日本社会の中で生きるということそのものについて。ここで、10巻収録の1話目、46話の千世の台詞が思い出された。「……大丈夫じゃないよ」「この先もずっとずーーーーっと大丈夫じゃない …じゃないけど」「大丈夫じゃないまま生きていくからいい そう決めた」

忘れられないことや目を背けられないことと一緒に生きるのは簡単じゃない。忘れたい、とわたしは何度も願う。でも、長い付き合いになる問題を抱えながら生きているひとはいっぱいいるし、そういう自分をとりあえず受け入れてあげることも一つのやり方としてある。そして、千世や槙生やえみりや笠町のようなひとを見ていると、そう生きるひとは強いひとだ、と思う。ひとまず、解決しない問題を忘れられないままいつまでも見つめてしまうことにたくさん苦しんだりすることは、やめてもいい。大丈夫。わたしたちはちょっとずつだけど、前に進んでいる。いつか忘れられるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、それはまだわからないことだ。わからないことだから、とりあえず、解決しない問題、忘れられない記憶、としてそこに置いておいてもいいだろう。