遠い遠い遠いところへ

遠い遠い遠い、ここではないどこかへ行きたい。遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い場所。長い人生を思うと憂鬱で堪らなくなる。いいや、違う。長いから憂鬱なのではない。かなしいから、憂鬱なのだ。でも、かなしいことをひとせいにしてはいけない。わたしは、選んだ。今もなお、ここを選んでいる。だから、望むなら、違うほうを選ばなければいけない。

休日が終わる夜、どうしてこんなに苦しい思いをしなければならないのか、その理由について考えている。わたしはこわいものが多い。そして、こわいものから距離を取るのが上手ではない。あっという間にのまれて、容易く見失う。見失ってはいけないものを、見失う。蜘蛛の巣のような憂鬱を振り払っては振り払い、足元を見ながら這うように進み、気がつくと、戻れない場所に来ている。自分より大事なものがない。それでよい時期もあった。でも、今は違う。わたしはわたしのことをじっくり考えたり、心を傾けて大事にしたりするのが苦しい。そうしているうちに、自分のかたちがわからなくなる。行きたい場所へ行けなくなってしまう。

先週、わたしの数字の大部分を担っているクライアント先から大きめのクレームを受けた。何度かこういうことを経験するうちに、仕事で痛いと思っても容易く涙は出なくなった。けれど、胸の底は重く、吸う空気は澱み、認知できる色彩は鈍くくすむ。途端に何もかもが退屈で、無気力になって、ただすべてを耐え凌ぐ消極的な生活になる。ただ流されていて終えられる仕事ではないから、何かをするにはお腹の底に少しだけ力を入れなければいけない。でも、その力が全く出ないときがあって、その猛烈な虚無感が憂鬱になり、心の柔らかいところを腐らせてゆくような気がする。わたしはそれがとてもかなしい。かなしくて耐え難くて、目も開けていられない。そうして凌いだ先にあるのは、今よりはちょっとマシな状況で、わたしはそれ以上になることができない。できるのかもしれないけれど、その想像が全くできなくて、それもわたしを苦しくさせる。

好きなバンドの新曲を聴きながら、雑多な街並みを歩く。週末に浮かれる人の群れをくぐり抜けて、映画館に急いでいく。喧騒が煩わしくて、音量を上げる。すると、五感のうちの聴覚がわたしの意識の大部分を支配するようになって、まるで音楽の中を泳いでいるみたいな心地になった。メロウなラブソング。ベースの低音がやさしく重たく響いて、気持ちが良い。武装していた心を解くように、余分なものをすべて捨て去るように、歩いてゆく。靴擦れした足が痛い。それでも速度を緩めず、歩き続ける。痛みが意識の外側に追いやられていく気さえする。まるでたのしく美しい物語の中の逃避行のような。よい夜へよい夜へ向かって、歩いてゆく。金曜日。のっぺりと続く平日とその日常からの解放を感じさせる、一週間のうちにたった一度しかない不思議な夜だ。

イメージする。軽やかに、飛び越えてゆく様子を。その足先の跳ね上がり、ふくらはぎの筋肉、遠くへゆくために伸ばした太腿。足に合わないパンプスも脱ぎ捨てて、ここじゃないどこかへ駆ける。襲いかかり、蝕もうとするものたちを飛び越える。何度でも、何度でも何度でも。望む方へ駆けてゆく。そう、イメージする。

実際わたしにそんな軽やかさはないし、日々は地道な積み重ねの連続だ。でも、わたしはここではないどこか遠い遠い遠いところで、このかなしみを手放したい。手放すほうを選びたい。そうして自分の力で、ここじゃない場所を選べるようになりたい。