窓の向こうの生活について

アパートの近くの駐車場で煙草を吸いながら、周りの家々やアパートの窓を眺めるのが好きだ。明かりがついていたり、真っ暗だったり、ちょうどいま明かりがついたり、窓の向こう側を人影が横切ったりするのが見える。いずれもひとの生活を感じる。それを感じるとき、自分の生活についての苦痛から目線が逸れて、気持ちが和らぐような気がする。自分一人ではないのだろう、という実感。一人暮らしは性に合っていると思うけれど、自分に起きたリアルタイムな出来事や感情を、プライベートな環境ですぐに人に共有できないデメリットは確実にある、ということに最近気づいた。わたしのように大人数の人付き合いが得意でない人間は特に。口に出して話をすることで、誰かに伝えることで、モノの見方が変わることは往々にしてあり、それができない時、思考は同じところを何度も巡って凝固してゆく。それがわたし自身を苦しめるときがある。なので、滑稽に見える話かもしれないが、知らない他人の暮らす家の窓を眺める時間は少しわたしを慰める。きっとみんな一生懸命生きている。しんどいことに歯を食いしばって、楽しいことに笑って、美しいものに感動して、悲しいことに嗚咽して、みんな生活をしてる。決して楽ではない生活を積み重ねている。そんなことを考えたりする。


身体が重い。実際に重いのか、気持ちの状態がそうさせるのか、わからない。感情に靄がかかったように感じる。ここ最近、嬉しいとか怒りとか悲しいとかたのしいとか、そういう感情をうまくはっきりと感じることができなくなった。胸の真ん中で薄い膜に包まれて、「嬉しい(?)」みたいな感情がいる。恐らく「嬉しい」なのだろうけど、直に触れることができないので、カッコ付きではてながつく。

原因はなんとなくわかっている。仕事に追われているから、ということと、仕事のために鈍くなろうとしているから、ということの二つ。忙殺という言葉はよく考えられた言葉だと思う。忙しさが濁流のようにわたしを押し流してゆく。目の前の仕事一つ一つに感情を持っていたら疲れてしまうし、そんな暇はないし、できるだけ鈍くいた方が嫌なことがあったときうまく距離を取ることができる。鈍くなろうと鈍くなろうと、頑張っている。

これは最近気づいてしまったことなのだけど、この仕事は考えないで言われたことをそのまま行動に移していけるひとに適性がある仕事だ。日々、ものすごいスピードで事態が変化していく。それに真っ先に適応していくことを求められる。どちらかというとじっくり考えることが得意な自分にこの適性はない、と思う。求められるスピードで行動できるようになることが成長であると言われればそれはそうなのだろうけど、自分がそう望まないことを無理してやることを成長と言うのかはわからない。

いよいよ体調にも影響が出てきたので、周りに心配をかけてしまっている。毎日強い不安感があって、胃が痛い。病院で処方された胃薬は効かなかった。ひとと関わるのがこわい。人間という不確定要素のかたまりを商材にする仕事をわたしみたいな人間がやるべきじゃなかった、ということに薄らと気づき始めている。(この言い方が既にすごくいやだ。無意識に書いていて、なおいやだ。)社内の人のことは好きだけど、業務のほとんどが社外対応なので、それがあまり慰めにならないのが悩ましいところだ。

どうするかはなにも決まっていないので、来週も変わらず出勤するだろうと思う。朝、思考を止めて起きて化粧をして、目を瞑って電車に乗って、トイレで呻いて、客先の近くの公園で蹲って、不安感や憂鬱をやり過ごす。友達の優しいラインを読み返して少し泣いたりする。考えると叫び出したくなるので、考えないようにする。黙々と目の前の仕事をこなす。

ただ毎日積み重ねるだけの生活がこんなに大変で難しいものとは思わなかった。大変で難しくてつまらなくてくるしい。くたくたになるまで仕事をして食べて眠るだけの生活は、むなしい。思考を止めて息をするだけの時間は、わたしをゆっくりだめにしていっている。