二〇二二年四月の終わり

わたしだけの人生がはじまった。住むところも、着るものも、食べるものも、全部、自分の力で稼いだお金で責任を持つ。水道のお金も電気のお金もガスのお金も携帯の使用料も、わたしの生活にかかるお金のぜんぶ、わたしが支払う。わたしの生活はわたしがわたしの手で全部支える。どんな場所であれ、どんな形であれ、学び舎たる場所を卒業して何かしらの職業に従事するようになれば、およそほとんどの若者が当たり前のように始める生活だけれど、わたしにはそれがとても価値のある出来事だった。大袈裟でなく、経済力とそれに伴う責任の範囲が限られる"学生"という身分でいる限り、わたしには叶えられないことがあって、それがとても歯痒かった。自分一人で生きているなんて言うつもりはないけれど、最低限、自分の生活に自由と責任を持てるようになりたかった。それは、ここ数年のわたしにとってほんとうに切実な思いだった。そしてついに、わたしが自由にできるわたしだけの生活で、人生がやってきたのだった。そんな二〇二二年の四月だった。

月末に近づくにつれて、少しずつ身体が限界に近づいているのを感じていた。単純な疲労もあったはずだけれど、なにより夏と冬を交互に行き来し続けるような寒暖差に身体が悲鳴を上げていたのだと思う。わたしはほんとうに寒暖差に弱い。そして、今年の四月の気温はほんとうに異常だった。ゴールデンウイークが始まってすぐ、喉、鼻、と順におかしくなって、あっという間に熱を出して倒れた。なんとか熱が下がった日にあちこち電話してやっと紹介してもらった病院に行って検査を受けた。どの病院もゴールデンウイークのはじめに休みをとるらしく、家から徒歩で往復三十分もかかる病院しか空いていなかった。翌日、その病院の医師から電話がかかってきて、陽性だと告げられた。

まず会社の上司に連絡をして、次に、指示された自宅待機期間のうちに会う予定があるひとたちに連絡をした。少し休んでからサポートセンターなどの諸々の登録をして、それから、悩んだ。これは親にも連絡をしたほうがよいのだろうか。母とはたまたまラインをしていた。わたしが病院に行った日に、明日会いに行ってもいいか、という連絡が来ていた。明日は一日中友達と遊ぶから無理、と返した。じゃあ六月くらいに会いに行こうかな、と返ってきた。そうだね、三日にささやかだけど初任給祝いが届くから楽しみにしててね、と送った。その日の朝、母からは、届いたよ、ありがとう、と来ていた。コロナになったと言えば、心配するだろう。電話をかけてくるだろう。電話を断ったらあれこれとラインを送ってくるだろう。どんなことを言われるんだろう、と思った。コロナなんてただの風邪だ、とは今はさすがに言わないだろうか。症状を聞いて、大したことないね、とは言うだろうか。ワクチン打ってないよね?、とまた聞かれるだろうか。怖かったから打ったよ、と言ったら、責められるだろうか。泣かれるだろうか。PCRなんか意味ないから、と言ったひとだから、そもそもわたしがコロナに罹っただなんて信じてくれないかもしれない。

"普通に"心配される状態があまり想像できなくて、むしろ自分がまたいやな思いをしたり傷つくような状況しか想像することができなくて、あっという間に考えるのが嫌になった。結局、わたしはそのラインを一つのスタンプを送って終わらせた。母からは当然、それ以降今日まで新しい連絡は来ていない。わたしももう、自分が体調を崩したこともそれがコロナだったことも、言うつもりはない。

わたしが変なのかな、と思う。母親と仲が良さそうにしている周りの人たちを見ると、わたしとの関係をそういう親子だと思い込んでいる自分の母親を見ると、わたしだけが恐ろしく狭量で、恨みがましくて、被害妄想をしていて、非道な娘なのかなと思う。自分は間違っているかもしれない、という考えはこの母娘関係を考えるにあたって常にわたしに付き纏う。他でもない母が、自分は正しい、と強く強く示すことでわたしを否定してきたから、この「わたしの方が間違っているだろう」という考えは長年わたしの中に染み付いていて、条件反射のように顔を出す。でも、傷ついた過去をきちんと過去にして、自分だけの人生を作るためには、もうそれをやめなければいけない。わたしはそう決めたのだった、と思い出す。傷ついた自分は間違っていなかった、わたしだけが悪いのではない、と過去の自分に言ってあげられなければ、わたしはわたしだけの人生を始めることができない。言われたくないことを惰性で聞いて受け流して嫌な思いをして、自分を尊重してくれない人間に傷つき続けて、つらかった過去を何度も何度も反芻して、自分の人生を痛みとくるしみでいっぱいにしていくことを、わたしはもうやめなければいけない。だから、すべてを伝えないことで、会いに行かないことで、あなたを多少傷つけていたとしても、わたしはわたしの人生のためにこれを選ぶしかない。全く寂しい気持ちがないわけではない。親には決して頼らない、と固く決めることは、まだ若く幼いわたしには少し厳しい、と思う。気軽に親に頼ったり、気にかけられたりしている周りのひとたちを見ると、心の底からうらやましい、と思う。でも、それをわたしは選べない。母親のいるところとは全く違うところで自分の人生を作らないと、過去の傷もいまの溝もどうにもできない。決して修復できない。わたしはわたしだけの人生を完璧に作ってきた、と言えるまで、その土台を築くまで、あなたを許すことも新しい気持ちで愛することも、難しいだろう。もうそういう生きかたを選ぶと決めたのだから、これでいいのだ、と思って、前に進むしかない。毎日を生活して、生きていくしかない。

心を帰さない。あの街に決して帰さない。先月、そう思って、その思いを噛み締めるようにこの家までの帰路を歩いたことを思い出す。あの日に、こうだ、と思ったことがこうしてときどきわたしを支えている。