綺麗なダムを探したい

あの木曜日から、また少しずつ生活が狂っていく。翌日の金曜日、電車の中でいつもの癖で何気なくツイッターを開いたら、目に飛び込んできた情報に、何かを考えるより前に涙が出た。あ、いま、だめだ、と思った。受け止めたり考えたりする間も無くわたしを殴りつけるような、涙腺に直結するような、そんなことが起こっていた。実生活の中では殴られも、ましてや銃で撃たれもしないような平和な環境で、自分の生活や人生を暴力や殺戮によって変えられることなく、わたしは見ないことを選ぶ。そのおぞましさ。けれど、わたしには、いま、本当に、自分の問題以外の何かに立ち向かうことができない。そういう力が、まったくまるでない。

不安がある。ひたひたと足元を浸すように不安がある。ときどき、ふとした瞬間に漠然とした巨大な不安感が襲ってきて、心臓の裏側がひやっとする。強い恐怖感を覚える。こわい、と思う。立ち上がれないくらいに。もともとあった、四月からの生活への不安とか、大事な友達の病気に対する不安とか、人生への不安とか、抱えている問題への不安とか、そういう不安たちが、あの日から、あの日の眠れなかった夜から、ずっと煽られている。増幅させられている。わたしは自分の両の手のひらにはとうに収まらなくなったそれを前に、立ち竦んでいる。

母から反ワクチンの内容のラインが度々送られてくるのを見るたびに、過去に彼女が、心配や愛情という聞こえのいい言葉でさまざまに包んでわたしを傷つけた記憶を、まるで再び感じるように思い出す。それはわたしのためになるどころか、わたしをかなしくさせただけだった。そう訴えてもなにひとつ受け入れてもらえなかった、そのことについて、そのかなしい感じをほとんど反射のように思い出す。身体が思い出す。わたしはこの苦痛をちいさくしたい。そうしたい、と、本当に、心の底から思うのに、痛かった記憶はいまだずっと生々しい。

ここ数日の陽気で突然、春という季節の存在を思い出させられた。長い冬に埋もれて、他の季節を違う世界の出来事のように思っていたのかもしれない、いつもより明らかに柔らかい昼間の空気を感じながら妙に新鮮な気持ちになった。しかし、自分の状態と、この柔らかさ、明るさ、彩度が合わない。強い抵抗感を感じている。まだ、冬を終わらせる勇気はない。まだ、わたしに春を受け取る力はない、と思う。朝番のバイトの帰り道、ふと仰いだ空がまだ薄い色をしていて、空が高いうちはまだ冬だ、と妙に安心する。空は、いつ、あんなに青く濃くなって近くなるのだろうか。真昼の光に当たりながら考える。この空がもっと青く近くなるころ、わたしはどんなふうに生きているのだろう。

煙草を吸いながら、綺麗なダムを探している。するかもしれない後悔について考えている。きっと行かないだろう。でも広く広がる水溜まりの写真などを見ていると、ここにいつか行く日が来るかもしれない、と考えたりすると、少し安らぐような気がする。