夏季休暇初日日記

夏の休暇がはじまった。もっと、解放感や充実感、みずみずしい期待に満ち満ちてはじまるかと思いきや、それは重たい疲労感と共にはじまった。感情らしい感情はなく、ただ、全身に広がるしんどさときつさ、疲労感としか言いようのないこの感覚。ここまで書いて、そういえば台風が来ていたっけ、と思い出す。低気圧がそうさせる部分も大いにあるだろうと思う。

 

フルタイムで仕事をしている人間たちは皆この奇妙な感覚があるのだろうか、と最近よく考える。自分の人生が、仕事という空疎な時間に塗りつぶされていく感覚。別に仕事が悪だとは思っていないのだけど、大学を卒業して会社勤めを始めてから、自分の人生が本来の形から変化していっているような感じがずっとある。仕事って、フルタイムで働くって、こういうことか、という実感は昨年の夏頃に得た。嬉しいことも辛いこともあるけど、ただ、延々と綿々と果てしなく続いていく繰り返しの日常、それがわたしの仕事に対する実感で、認識だ。学生の頃は毎日にルーティンがなく、変則的だったから、そういう実感はほとんどなかったように思う。フルタイムという労働形態と、それが現実的な生存に直結しているからそう感じるのかもしれないけれど、それなりのエネルギーを持って舵を切らなければ今後この日常は途切れないし変化もない、という感覚がなんとなくあって、それが緩やかな閉塞感を生んでいる。そして、それが週の5日を埋めているが故に、人生≒仕事という気分になってくる。決してそんなことはないのだけど。もう少し仕事以外の分量を増やせばよいのだろうか。今の状態のまま、かたちが決まっていってしまうのはどうも居心地が悪い気がして、よくない。

 

昨夜は、眠くてたまらないのに、何度も観ている韓国ドラマを目を擦りながら1時まで観て、眠った。今朝は酷い咳で目が覚めた。先日、二度目のコロナをやってから、気管支が弱っている感じがする。以前に医者にかかった時に教えられたのだけど、喘息持ちだった人はコロナ罹患後に気管支が荒れやすいんだそうだ。特に朝方に咳が辛い。呼吸のために必要な身体の中の筒が、一回りか二回りぐらい、縮んでいるような気がする。起き上がって動き出せば次第に良くなるのだけど、とにかく朝は暫く咳き込んでいて、しんどい。今朝も例に漏れず、起き上がるまで咳が酷かった。でも、一週間の疲れか、全身がとにかく重くて起き上がる気になれない。結局昼の十二時間近までベッドで過ごして、空腹に耐えられなくなった頃にようやっと起き上がることができた。

近所のお気に入りのパン屋に部屋着のまま赴き、チーズキーマカレーのパンとアップルパイとカンパーニュを二分の一購入する。カンパーニュはいつもスライスカットしてもらうのだけど、ここ数回は毎回、最近バイトで入ったのだろう学生らしき女性が切ってくれる。入ったばかりだからなのか、毎回、スライスの厚みが不揃いだったのだけど、今日はすごく綺麗に等分されていたことに帰宅後に気づいた。別に不揃いでも味は変わらないし、何より学生時代のアルバイト先で、初め、不恰好なホイップクリームを巻いていていた自分を思い出してなんだか微笑ましい気持ちになるので良かったのだけど、いっぱいカットして上手になったんだなあ、と思うと嬉しくなった。

朝食と昼食を一緒に終えて、洗濯物を回す。ここ最近は酷暑も相俟って文字通り毎日へとへとで、仕事から帰ると風呂に入って食事を取るのが精一杯だった。溜め込んだ洗濯を二回に分けて回す。ついでにずっとサボっていたトイレ掃除もする。動画配信のサブスクリプションをいくつか漁ってから、アニエス・ヴァルダの初期作「ラ・ポワント・クールト」を観る。

ベッドに寝転び、窓を背にしてiPadで映画を観ていたら、度々画面に窓枠とカーテンに区切られた青空が反射して、きれいだった。連休唯一の快晴かもしれないけど、毎日炎天下の中で歩き回っているので、今日ぐらいは家の中にいたい。

 

ここ数ヶ月の間で、自分の中から恋愛に対する興味が一切消えた。少し前までお付き合いしていた人との関係が終わった時に、自分に恋愛って本当に必要なかったんだな、という実感がやってきたのが、一つの区切りだったように感じる。その実感、というか納得感のようなものは、なんというか、巨大で強力で、鮮烈さすらあった。うまく言葉には言い表し難いのだけど、とにかく、ものすごく腑に落ちたことだった。他の人がどうかはわからないけど、わたしは結構流動的な人間だと思うし、時間の流れや環境の変化でアイデンティティも価値観も性格も変化するのは必至だと思うタイプの人間なので、いつかそうでなくなる時が来るかもしれないとは思う。ただ、とりあえず、今のわたしに恋愛は完全に不要になった。

そのことに対して全く悲観も不安視もしていないのだけど、ひとつ問題があるとすれば、他人の恋愛の話に全く興味を持てなくなってしまったことだ。大好きな親友や友達、職場の後輩、同僚。生活の中の会話のトピックには案外恋愛が多い。それら全てに、本当に全く完全に関心が持てない。自分がしないというだけで、もちろん恋愛そのものに否定的な思いはない。それに救われたり支えられたりする人もいるし、それを楽しむ人がいるのも理解できるからだ。ただ、自分の中にそれへの興味がとんとなくなってしまったことで、その話に個人的な興味が持てない。興味が持てないと共感できないし、全く共感できない話を延々と聞くのはちょっとしんどいということに最近気づいてしまった。相手に申し訳ない気持ちになるし、もちろん興味を持って聞きたい気持ちもあるのだけどあんまりうまくいかなくて、どうしようかな、と思っているこの頃だ。

 

映画を一本観終わって、紅茶を淹れてアップルパイを食べ、煙草を一本吸い終えたところで、やっと休暇の実感が身体に馴染んできた。「ラ・ポワント・クールト」は、70年代以降のヴァルダ作品ほどの映画的鋭さというか、おお、と唸ってしまうような画は少なかったけれど、アニエス・ヴァルダという映画作家がすごく好きだ、と再認識できるような映画だった。先日観た「冬の旅」でも思ったけれど、ヴァルダの描く、淡々とした、シンプルで脚色のない(ように見える)市井の人々の生活の映画の存在はすごく重要だと感じている。そこには、作家の憐れみの感情も、押しつけのような問題意識も傲慢な代弁もない。ただ、提示される。どう受け取るか、考えるか、感じるか、全てが鑑賞者たちに冷たいぐらいに委ねられている。これはあまり多くある作品の形ではないと思っていて、ヴァルダの映画は精神的にすごく研ぎ澄まされていると感じることが多い。可哀想だ、と憐れむことは最も対象を遠ざけて他者化することだと思う。個人的に、そうさせる社会的な映画になんの意味があるのか、と思っているので、ヴァルダの作る映画が示す距離感がすごく好きで、いつも背筋を正されるような思いになる。

これから夜の回で映画館に行こうか考えている。遠ざけてしまっていたけれど、違国日記の最終巻もそろそろ買わなければいけない。