散ってゆくもの、うまれるもの

いつも眠れないけれど、今日が特別眠れないのは、明日が二週間ぶりの病院だからだ。目を瞑ると、不完全な闇が横たわっている。ちらちらと何かが瞼の裏をちらつく。真っ暗じゃない。不完全が故に、眠りに落ちてゆけない。瞼は重いのに、意識は覚醒していて、なかなか眠りの端を掴めない。栓のないことをあれこれと考えてはやめ、考えてはやめ、わたしは眠ることも、怠く鈍った思考をうまく回転させることもできない。言葉が生まれては、途切れ、生まれては、途切れ、繰り返して、寝返りを打つ。

眠りの海に沈んでゆきたい。深く深く、何も見えない、聞こえない、感じない、思い出さない、海の底。わたしはいつも水面が見上げられるぐらいの場所までしか沈めなくて、夢をみる。本当は、何も聞きたくないし見たくない。底の底まで沈めて欲しい。できるなら、もう浮き上がってこられないくらい深いところへ。わたしを夜に、昨日に、閉じ込めておいてほしい。目が覚めるたびに、新しい日を受け入れるたびに、無力で怠惰な自分を憂う。始まってしまった一日をどう消化しようか、持て余す。それは、とても虚しくて、恥ずかしいことで、まともに直視しようものなら耐えられない。輪郭のぼやけた憂鬱にすり替えて、天井を眺める。物語に逃避する。

 

病院は思ったより恙無く終わった。何をそんなに怖がっていたのか、終わってみると忘れてしまっていた。夕暮れより少し前の帰り道、信号待ちをしていると、道の向こう側の空を二羽の鳥がよぎっていった。よく見るとカラスと、もう一羽は知らない鳥で、競うように、二羽は同じカーブを描きながらわたしの背後の空に消えていった。かれらを追って見上げた空は薄青く晴れている。遠い空はもう橙に染まり始めていて、夜がゆっくりやってくるのがわかる。信号が青になる。

 

ⅲ 

パスタの麺をちょうどいい量でフォークに巻き付けることができない。いつもうまくいかないなあ、と思って、思ううちに食べ終わる。年末最後だからと、久しぶりに行った近所のカフェでナポリタンを食べる。初老のマスターが一人でやっているカフェで、コーヒーよりも食事やデザートが美味しく、去年からよく行くようになった。近所に友達がいないので、まだ誰にも教えていない。お気に入りはタルトタタン。今日は朝から何も食べていなかったので、ナポリタンにした。ケチャップの酸味が強めで、麺が太く、玉ねぎが入っていないタイプのこのナポリタンが好きだ。でも、毎度のことながら、上手に食べられない。一度で食べるには多すぎる量を何度も巻き付けて、頬張って、苦しくなった。上手に、美味しく食べたいのに、具材も置き去りになりがちで、理想的な食べ方ができない。満腹になった後、カフェオレを飲みながら多和田葉子の「容疑者の夜行列車」を読んだ。(不思議なこの小説は、内容も相まって度々タイトルを「夜汽車の夜行列車」と勘違いしてしまう時がある。)ゆっくりして、お腹に力を入れる準備ができたら、床に置いた鞄を持って、下り電車に乗る予定だ。滅多に乗らない下り電車で、わたしは今夜、帰省する。

 

言葉にしようのない悪夢を見る。わたしだけが知っている悪夢。悪夢を振り払うように目覚めに手を伸ばす。寝転んで本を読んでいたら、いつの間にかうつらうつらとしていたようだった。読んでいた本はわたしの手をすり抜けてベッド横の床に落ちている。三割も覚醒しきらない頭で、夢の続きを見る。視界に入ったベッドサイドの小さな棚の上の花瓶が気持ち悪く見えて仕方がない。なんとか振り払おうとゆっくりと目を開けたり閉じたりするが、悪夢の余韻はなかなか消えない。こわいものを繰り返す。逃れられない。説明できない。言語にならない。あらゆるものの形が歪められて、戻って、歪められて、繋がって、散らばる。涙は出ない。もう一度、手を伸ばす。

 

もっと冬の空は寂しそうでいてくれないと。車窓の外を流れる景色を見ながら、ぼんやりと思う。年明けから三日間、関東地方はよく晴れた。実家のある田舎町も例に漏れず、毎日上空は清々しいほどの快晴で、東京に戻る今日も空は青い。でも、少し、青すぎる。冬らしくない、濃く、青い空が覗いている。駅まで送るという父の申し出を断って、駅までの二十分を歩いた。久しぶりに歩いた道は何一つ変わらず、相変わらずいい思い出がひとつもない。正月らしく人の少ない駅の改札を抜ける。ホームには、線路の向こう側のロータリーにいる祖父母らしき人たちに向かって手を振り続ける家族連れがいて、いい帰省の終わりだったのだろうか、と考えたりする。間もなくやってきた3両しかない電車に乗り込みながら、わたしはもう暫く帰らないだろうな、と思った。休みの日の上り電車は乗客が少ない。何年も何年も何回も何回も見た車窓の向こうの景色が過去になっていることに安心した。もうずっと過去でいてね。どうか連れ戻したりしないでね、と願う。

空が青い。冬の空は薄青く、高い。もっと寂しそうでいてくれないと。わたしはまだ少し、かなしい。

 

Wild Flower (with youjeen)

Wild Flower (with youjeen)

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帰り道はこの曲を聴きながら帰った。わたしがわたしでなくなるとき、あの空へ散りたい、という歌詞の内容が好きだ。