夏季休暇初日日記

夏の休暇がはじまった。もっと、解放感や充実感、みずみずしい期待に満ち満ちてはじまるかと思いきや、それは重たい疲労感と共にはじまった。感情らしい感情はなく、ただ、全身に広がるしんどさときつさ、疲労感としか言いようのないこの感覚。ここまで書いて、そういえば台風が来ていたっけ、と思い出す。低気圧がそうさせる部分も大いにあるだろうと思う。

 

フルタイムで仕事をしている人間たちは皆この奇妙な感覚があるのだろうか、と最近よく考える。自分の人生が、仕事という空疎な時間に塗りつぶされていく感覚。別に仕事が悪だとは思っていないのだけど、大学を卒業して会社勤めを始めてから、自分の人生が本来の形から変化していっているような感じがずっとある。仕事って、フルタイムで働くって、こういうことか、という実感は昨年の夏頃に得た。嬉しいことも辛いこともあるけど、ただ、延々と綿々と果てしなく続いていく繰り返しの日常、それがわたしの仕事に対する実感で、認識だ。学生の頃は毎日にルーティンがなく、変則的だったから、そういう実感はほとんどなかったように思う。フルタイムという労働形態と、それが現実的な生存に直結しているからそう感じるのかもしれないけれど、それなりのエネルギーを持って舵を切らなければ今後この日常は途切れないし変化もない、という感覚がなんとなくあって、それが緩やかな閉塞感を生んでいる。そして、それが週の5日を埋めているが故に、人生≒仕事という気分になってくる。決してそんなことはないのだけど。もう少し仕事以外の分量を増やせばよいのだろうか。今の状態のまま、かたちが決まっていってしまうのはどうも居心地が悪い気がして、よくない。

 

昨夜は、眠くてたまらないのに、何度も観ている韓国ドラマを目を擦りながら1時まで観て、眠った。今朝は酷い咳で目が覚めた。先日、二度目のコロナをやってから、気管支が弱っている感じがする。以前に医者にかかった時に教えられたのだけど、喘息持ちだった人はコロナ罹患後に気管支が荒れやすいんだそうだ。特に朝方に咳が辛い。呼吸のために必要な身体の中の筒が、一回りか二回りぐらい、縮んでいるような気がする。起き上がって動き出せば次第に良くなるのだけど、とにかく朝は暫く咳き込んでいて、しんどい。今朝も例に漏れず、起き上がるまで咳が酷かった。でも、一週間の疲れか、全身がとにかく重くて起き上がる気になれない。結局昼の十二時間近までベッドで過ごして、空腹に耐えられなくなった頃にようやっと起き上がることができた。

近所のお気に入りのパン屋に部屋着のまま赴き、チーズキーマカレーのパンとアップルパイとカンパーニュを二分の一購入する。カンパーニュはいつもスライスカットしてもらうのだけど、ここ数回は毎回、最近バイトで入ったのだろう学生らしき女性が切ってくれる。入ったばかりだからなのか、毎回、スライスの厚みが不揃いだったのだけど、今日はすごく綺麗に等分されていたことに帰宅後に気づいた。別に不揃いでも味は変わらないし、何より学生時代のアルバイト先で、初め、不恰好なホイップクリームを巻いていていた自分を思い出してなんだか微笑ましい気持ちになるので良かったのだけど、いっぱいカットして上手になったんだなあ、と思うと嬉しくなった。

朝食と昼食を一緒に終えて、洗濯物を回す。ここ最近は酷暑も相俟って文字通り毎日へとへとで、仕事から帰ると風呂に入って食事を取るのが精一杯だった。溜め込んだ洗濯を二回に分けて回す。ついでにずっとサボっていたトイレ掃除もする。動画配信のサブスクリプションをいくつか漁ってから、アニエス・ヴァルダの初期作「ラ・ポワント・クールト」を観る。

ベッドに寝転び、窓を背にしてiPadで映画を観ていたら、度々画面に窓枠とカーテンに区切られた青空が反射して、きれいだった。連休唯一の快晴かもしれないけど、毎日炎天下の中で歩き回っているので、今日ぐらいは家の中にいたい。

 

ここ数ヶ月の間で、自分の中から恋愛に対する興味が一切消えた。少し前までお付き合いしていた人との関係が終わった時に、自分に恋愛って本当に必要なかったんだな、という実感がやってきたのが、一つの区切りだったように感じる。その実感、というか納得感のようなものは、なんというか、巨大で強力で、鮮烈さすらあった。うまく言葉には言い表し難いのだけど、とにかく、ものすごく腑に落ちたことだった。他の人がどうかはわからないけど、わたしは結構流動的な人間だと思うし、時間の流れや環境の変化でアイデンティティも価値観も性格も変化するのは必至だと思うタイプの人間なので、いつかそうでなくなる時が来るかもしれないとは思う。ただ、とりあえず、今のわたしに恋愛は完全に不要になった。

そのことに対して全く悲観も不安視もしていないのだけど、ひとつ問題があるとすれば、他人の恋愛の話に全く興味を持てなくなってしまったことだ。大好きな親友や友達、職場の後輩、同僚。生活の中の会話のトピックには案外恋愛が多い。それら全てに、本当に全く完全に関心が持てない。自分がしないというだけで、もちろん恋愛そのものに否定的な思いはない。それに救われたり支えられたりする人もいるし、それを楽しむ人がいるのも理解できるからだ。ただ、自分の中にそれへの興味がとんとなくなってしまったことで、その話に個人的な興味が持てない。興味が持てないと共感できないし、全く共感できない話を延々と聞くのはちょっとしんどいということに最近気づいてしまった。相手に申し訳ない気持ちになるし、もちろん興味を持って聞きたい気持ちもあるのだけどあんまりうまくいかなくて、どうしようかな、と思っているこの頃だ。

 

映画を一本観終わって、紅茶を淹れてアップルパイを食べ、煙草を一本吸い終えたところで、やっと休暇の実感が身体に馴染んできた。「ラ・ポワント・クールト」は、70年代以降のヴァルダ作品ほどの映画的鋭さというか、おお、と唸ってしまうような画は少なかったけれど、アニエス・ヴァルダという映画作家がすごく好きだ、と再認識できるような映画だった。先日観た「冬の旅」でも思ったけれど、ヴァルダの描く、淡々とした、シンプルで脚色のない(ように見える)市井の人々の生活の映画の存在はすごく重要だと感じている。そこには、作家の憐れみの感情も、押しつけのような問題意識も傲慢な代弁もない。ただ、提示される。どう受け取るか、考えるか、感じるか、全てが鑑賞者たちに冷たいぐらいに委ねられている。これはあまり多くある作品の形ではないと思っていて、ヴァルダの映画は精神的にすごく研ぎ澄まされていると感じることが多い。可哀想だ、と憐れむことは最も対象を遠ざけて他者化することだと思う。個人的に、そうさせる社会的な映画になんの意味があるのか、と思っているので、ヴァルダの作る映画が示す距離感がすごく好きで、いつも背筋を正されるような思いになる。

これから夜の回で映画館に行こうか考えている。遠ざけてしまっていたけれど、違国日記の最終巻もそろそろ買わなければいけない。

どこにもいけないよる

22時を過ぎて台所に立つ。鍋に水を入れ、お湯を沸かす。冷凍庫からだいたい50グラムぐらいに分けた豚肉の袋を取り出して、レンジを回す。胡瓜を半分に切って、半分は冷蔵庫に仕舞う。たくさん泣いた目の、瞼の裏側がいたい。半分の胡瓜を丁寧に千切りにする。沸騰しかけた鍋の水に豚肉を放り込む。電気をつけていないせいで火が通ったかわからない。電気をつける。間違えて換気扇がつく。そのままにして、手探りでもう一つのスイッチを探す。カチ、とスイッチが切り替わる音がして、一、二秒遅れて電気がつく。鍋の中でピンク色の豚肉が踊っている。踊る豚肉を眺める。換気扇の音をじっと聞く。行き場のない感情の爆発と、いま、ここ以外のどこにも行けない窮屈な魂を思う。

 

仕事で嫌なことがあった。まだ続いている。この週が終わってもずっと続くだろう。わたしはこの低気圧の天井のように重たく途方もない憂鬱を暫く抱え続けなければならない。

毎日、二本足で立って歩いているのがギリギリの精神状態だ。容赦ない猛暑を虚ろな気分で彷徨っていると、このまま溶けて死んでしまえるような気がして、そんな甘い夢に意識が揺れる。オフィスに戻ってパソコンの前に座ると、現実が心臓に氷をいれてくる。きゅ、と締められた心臓、呼吸が浅くなって、胃がキリキリと痛む。他オフィスの後輩にランチに誘われたので豚カツ屋で豚カツ定食を食べた。喋りながら口に突っ込んでいたらいつのまにか食べ終わっていたけど、味を全く思い出せない。勿体無いことをした。安くなかったのに。いつも通り安いうどんかゼリーを流し込めばよかった。後輩の話に相槌を打って励ましたりアドバイスをしたりしていたことはよく覚えているのだけど、そこにどんな感情が伴っていたか思い出せない。ずっと胃は痛かった。こんな状況なのに、朝、上司の機嫌が悪くて、すげなく突き放されたときから手の震えが微かにあって、止まらない。煙草を吸う。吸った気がしない。でも、アポイントの時間が迫っていて、駅構内を急ぐ。足をたくさん動かす。死にたくないからポカリを飲む。なんで、とかは考えない。立ち止まったらきっともう、二度と歩き出せない。それはこわい。

ものすごい熱気(暑い、というレベルではない。わたしたちは熱気を浴びている。)の中を歩きながら、リカバリーに奔走する。起きてしまった事態はわたしのせいではなく、これは他人の尻拭いで、クライアントのおじさんたちもわたしに怒るしかないから怒っている。何度考えても納得できない、非合理的なクソシステム。しかし、わたしはこのクソシステムを壊すことはできない。だから、頭を回す。社内の方々に電話をして、チャットを送り、全体メールに配信をし、あちこちに泣き付いて、圧力をかけながら、ひたすら最善のリカバリー策を探す。気力も体力もギリギリだけど、わたしがやるしかないから、やる。これは自己犠牲精神で背負い込んでいるのではなく、文字通り、"わたしがやるしかない"。こんな仕事、いつか絶対、最悪のタイミングでやめてやる。何度目かわからない、呪詛を吐く。最悪のタイミングで……。

瀕死で戻ったオフィスで、機嫌が悪いんだかいいんだかわからない上司に根性論を振り翳され、見事ボロボロになったわたしは、家に帰ってきて一時間半、手も洗えずフローリングに座り込んでいた。必死で動き回ったので、空腹がつらい。でも、本当に何にも食べられる気がしない。明日の朝はもっと食べられないに決まっているのだから、夜はせめて食べないと。体力がもたない。明日も一日外で仕事なのに。そう思うのに、動けない。無気力に半分呑まれながら、何を思ったか漫画を買って、読んで、おんおん泣いた。久しぶりにちゃんと涙が出てほっとした。わたしは、なんで生きたくもないのに、嫌なことしながら生きてるんだろう、と思う。どうしてそんな整合性の取れないことを。やめることを選べないわけではないのに、どうして、つらいことの真っ只中で立っていようとするんだろう。ものすごく、むなしい。むなしくて、息が詰まりそうだ。

シャワーを浴びて、またしばらくぼんやりして、やっと台所に立つ。食べなきゃ。明日、苦しい思いをしないために。明日、道の真ん中で倒れないで済むように。冷凍うどんをレンジに入れる。スイッチを押す。レンジが回り出す。茹で上がった豚肉をざるにあける。うどんを待ちながら、鞄の上でくしゃくしゃになっているジャケットをハンガーにかける。ついでに床に落ちているゴミを拾う。生活を回す。リズムを作る。回す。回す、回す、回す。のしかかってくる憂鬱に全部明け渡さないでいられるように、息のしやすいところを探して、生きる。なんでかわからないけど、生きることしか選べなくて腹が立つ。魂が窮屈がる。でも、どうしても今ここで全部やめることができない。やめてもいいんだよ、と言ってあげる。大丈夫だよ。

 

ベッドに横たわって、これを書いている。

まばゆい季節でダンスする

連日、近くの映画館が満席になっている 新宿駅構内はまっすぐに歩けず、サロンに遅刻しかけた 煙草を吸う窓から顔を覗かせると、斜向かいのマンションのベランダに鯉幟が泳いでいる 風の強い日の煙草は短くなるのが早い 青い空を仰ぎながら、本を読んで、うたた寝をした こころよい休日 いつか灰になることを夢見てやまない夜 春 かなしくて憂鬱で穏やかな春 24歳を俯きがちで生きている みんなと同じように踊るふりをして、ずっとずっと音楽の終わりを待っている

あの日割れたマグを片付けてから、目の前の霧が晴れたような気がしていた (新しいマグを買った) 心の中でぽきりと折れた何かは消えて、少しずつ前を向く気力を溜められているような気がした おかあさん、と思う どうしてわたしを詰ったの どうしてわたしを叩いたの どうして、愛してると言ったのに、愛でないものを押し付けてくるの 瞼の裏に光がちらつく あなたの香水の匂いを思い出す 最近、恋人ができた でも、友達と12時間喋り続けた夜、今のわたしに必要なのは、恋でもなく、家族でもなく、これだった、と思った 恋人のことは好きだけど、家族をちゃんと大事にできる日がいつになるのか、わからない ずっとずっとわからない (いつか、「親不孝」を完璧に後悔するだろうか) 駅前の喫煙所で、落ち葉と埃が小さな旋風を作っている そこではどんな音楽が鳴っているんだろう わたしはいつまでここで…

春になる少し前、弟が就職で実家を出た この前、好きなバンドのライブに一緒に行ったあと、電車の中で家族の話をした まだ無理だよね まだ、まだ無理だよね でも、無理でも大丈夫だよね、という話をした わたしたちはうまくいかないものを抱えて、大丈夫じゃないけど、大丈夫じゃないまま、大丈夫という顔をして、生きていかなければいけない 大きな不幸ではない ありふれた生活、ありふれた人生、ありふれた人間 わたしだけがかなしいなんて言うつもりはないけど、ないのだけど

昼に観た映画で、老婦人が、他人からの哀れみを決して受け入れてはいけない、と言っていた 美しいカット、美しい光、美しい闇が続く、特別不幸でも幸福でもない映画を観ていたら少し気持ちが落ち着いた*1 風の強い日、長い髪が宙に煽られるまま、家までの道を歩く 明日で連休が終わる また毎日が途方もなく続いていく 積み重なっていく 特別なことはない 音楽は終わらない 誰も彼もが踊っている 誰のためのなんのための音楽かもわからないまま 

 

 

 

*1:昨日公開されたばかりの「それでも私は生きてゆく」ミア・ハンセン=ラヴ監督作品。邦題よりも、ある美しい朝、という意味の原題の方が好き。

四月、さみしさに醒める

肌寒い四月の曇り空の朝は、すこしさみしい。連日の春真っ盛りとでも言わんばかりの眩しい快晴と暖かい気候に浮かれていたのが嘘だったように感じる。あれはほんの束の間の夢であったと突きつけられるような、暖かくて心地よい夢から目覚めるような。駅のエスカレーターでふと振り仰いだ出口の向こうの曇り空を見ながら、は、と我にかえった。けっしてよい季節がなにもかもを解決してくれたわけではないことを思い出す。鮮やかな春の景色がわたしの人生の彩りをまるっと変えてくれたわけではないことを思い出す。その、やさしく冷たいことを諭すような不意のきびしさに気づいたとき、わたしが四月に見ないふりをしていたものたちと目が合ったような気がした。

 

シャンタル・アケルマン監督特集に連日行っている。昨年の特集で「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」を観て衝撃に打たれてからすっかり彼女の作品のファンなのだけど、今回新しく観られた作品も素晴らしいものが多かった。アケルマンは、フェミニストバイセクシュアルの映画作家であり、その作品にはフェミニズムセクシュアリティ、母親の要素が含まれることが多い。多くの作品の内容からも、今であればクィア映画作家と評されていただろう。なるほど、わたしが嫌いなはずがない。

その中でも、今回観られてよかったのが、「家からの手紙」。ニューヨークの街や電車や駅構内がひたすら長回しで映される中、故郷であるベルギーを出てニューヨークで暮らしていたアケルマンに宛てられた母親からの手紙が朗読されるというドキュメント的内容。実際に母親から送られてきていたという手紙がアケルマンの淡々とした声で読み上げられる。カメラは時に定点で、時に美しい横移動をしながら70年代のニューヨークを映し続ける。手紙の内容は、娘の健康の心配や、近況を教えて欲しいと請う内容、母の周辺の家族や親族の近況について、仕送りが届いたかどうか、などだ。できるだけ頻繁に手紙が欲しい、会いたい、愛してる、という内容が多くを占める。お節介で愛情深いように見えるけれど、少し行き過ぎた執着心も垣間見える手紙たち。母親からの素晴らしい愛の手紙という受け取り方では物足りなく感じる。ニューヨークという自由の街で羽ばたくアケルマンを、故郷に、母親に繋ぎ止めようとするあの手紙たちを読むアケルマンには、きっと相反するいくつもの複雑な感情があったのではないかと考えてしまう。そして、言わずもがな、わたしは自分の母親との関係について、思い出さずにはいられなかった。

アケルマンは、自由だったとき、あんなふうに帰る場所を用意されていたことを、どんなふうに感じていたんだろう、と考える。(ある手紙の中では、新居を購入したい、そうしたらあなたの部屋も作って待っている、という内容がある。)窮屈だっただろうか。それとも、自由で孤独な街ニューヨークで母の愛情を感じて安心しただろうか。母は言う。会いたい、いつ帰ってくるの?「でも好きなようにしなさい」「あなたの幸せが一番です」幸せが一番と言いながら、それが本心でありながら、娘の気持ちに決して寄り添うわけではない手紙の内容に、わたしはわたしの母を思い出す。まごうことなき愛と振り翳されるそれらは彼女やわたしを幸せにするのだろうか。

親の思いに応えることと応えないこと、親と距離を置いて自分の人生を作ることについて考える。愛してないわけじゃない。恩も感じているし感謝もしている。その恩を返したくないわけじゃない。でも、わたしはもうコントロールされたくない。コントロールできない、と思われるたびに自己肯定感を削られるのをやめたい。親の思うように生きることで恩を返すのではない、別の方法はないのだろうか、と考える。あなたの幸せが一番というのなら、それがあなたの思いに応えることでなくても許してくれないだろうか。ラスト、海上からマンハッタンを臨み後退移動していく10分近くの長回しを観ながら、ずっとそんなことを考えていた。

 


かなしいことがあった。何度似たようなニュースを見ても聞いても、これだけは決して慣れることはない。未だ、なにも言葉にならない。ただただ無限のかなしみが足元に広がってゆくような感じがする。誰も、誰の人生も選択も変えることはできない。生きるというその責任を負えるのはその人生を生きている本人だけだから。だから、その選択をせざるを得なかった状況を憂うことはできても、その選択を否定も肯定もできない。でも、ただただ、かなしい。その自分の感情はちゃんと受け入れてあげないといけない、と思う。どのひとも、こんな状況だけれど、どうか安らかでいられますように、と願うばかりだ。

 


会社で嫌なことがあった日、お気に入りのマグカップを粉々に割った。片付ける気力が出なくて、丸一日、そのままになっている。本当にお気に入りだった、陶芸家の山下太さんのインディゴブルーのマグカップ。見るたびにかなしくてたまらない。仕事で起きたことをまた思い出して、立ち上がれないくらいつらくなった。気持ちまで、床に叩きつけられて割れていくつもの破片に散らばったような感じがする。マグがひどい音を立てて割れたとき、ここ最近、見ないふりをしていたよくないことが急に目の前に輪郭を持って現れたような気がした。そのダメージから立ち上がれない。昨晩泣き腫らした瞼で、憂鬱を押し殺して仕事をしている。

 


乱暴に進む時間が立ち直れと言う。もう少し待って、と思う。薄暗い四月が続く。わたしは季節と季節の隙間に足を滑らせて転んで、言いようのないさみしさに横たわっている。

春のこわいものたちについて

室内で聞く雨の音が好き。時々、通りを走る車が水を裂くような音を出して遠ざかっていくのも好き。雨を見るのは、ここのところ、あまり好きじゃない。どうしてか、気分が沈むから。その青灰色のトーンが落ち着く時もあるけど、今日はなんだか虚しい気のする雨だ。はやく目を瞑って眠りたい。雨が落ちる、この穏やかな音を聴きながら、できるだけ時間をかけずにすんなり眠りに入ってゆけますように。

 

秋は死にたくなるけど、春はただ目を瞑って視界を閉ざしていたい季節だ。梅も桜も柔らかい春風も、真新しく見える世の中も別に嫌いではない。むしろ陽のある時間が増えたことで、身体も精神も確実に元気になっているような気がする。春になると芽吹く植物の如く。でも、やっぱり春はわたしにとって、どこか恐ろしく、できることなら目を瞑っていたい季節だ。

なぜ春は目を瞑っていたいと思うのか、考えを巡らせていると、川上未映子の小説の『春のこわいもの』というタイトルを思い出した。春のこわいもの。春。こわい。小説のタイトルの言葉選びが印象的なのもあるけれど、やはりこの2語のセットのイメージはわたしの実感に近いのだと思う。わたしは春に対して言い知れぬ恐ろしさを感じている。それは何かと「新しい」というイメージが付されるがための、それに対する不安のことなのか、あるいは他の何かなのか、わからないけれど。

ふと思い出した勢いでその小説をぱらぱらと読み返していたら、四つ収録されている話の一つ目の『青かける青』という物語の内容に強い既視感を感じた。一通の手紙の内容のみのとても短い話なのだけれど、メニエール病なのか、めまいと頭痛の病気で入院している女性のものの感じ方が、いやに休職していた頃の自分を思い出させた。

 

「ときどき、自分はどうやって生きていくんだろうな、というようなことを考えます。それは将来とか仕事とか、そういうみんなが考えるような具体的なことではなくて、なにかもっと漠然とした、居場所のようなものです。」

「まるで脳みそのほうが、こんなわたしに付きあっていられないといってわたしの意識から離れたがっているんじゃないかと思うくらい、ここに来てから、わたしがわたしでいる時間は短くなっています。まるで、歩けなくて、車椅子に乗っている人の脚から筋肉がなくなっていくように、わたし自身から、少しまえまでわたしにあった、なんとかまっとうに生きていくための筋力が少しずつなくなっていっているような感じがします。でもそれは、誰かに奪われたとか、もともと与えられていなかったとかそういうんじゃなくて、ぜんぶ自分でやっていることのような気がするんです。病気になったのはわたしのせいじゃないんだけどね。でも、自分が自分に、なんだか毎日、取り返しのつかないことをしているような、そんな気持ちがします。」  

川上未映子著『春のこわいもの』新潮社)

 

 

もっと明確に、辛い、や、痛い、悲しい、という言語化しやすい感情であればわかりやすかったと思う。でも、あの頃、昨年末の一月半は、もっと漠然とした、無力感や虚脱感のようなものに覆われていた。それを直視するとひどい不安感に襲われるので、できるだけ見ないように見ないように遠ざけて、遠ざけるために眠って、眠って、時には物語に没頭した。時々、先のことや仕事のことを考える。その度に、わたしは日々、とんでもない、取り返しのつかないことをしている、という思いに取り憑かれてどうしようもなくなった。全身から、「普通」に、「まとも」に生きていく力がどっと抜け落ちていくような、そんな感じがずっとあった。

休職して丸二ヶ月と少し、戻ってみれば、案外うまくやれたりしたのだけど。あの頃は、不思議な、隔絶された場所で不安定に浮かんでいるような心地だった。それは確かに、入院と似ていたのかもしれない。

 

実際、復職後は、思った以上に仕事にうまく戻れていて、かなり驚いている。春という陽の光の多い季節がそうさせているのか、わたしに必要だったのは仕事を休むというただけそれだけのことだったために、それが功を奏したのか。なぜこうなっているのか本当にわからないし、予想だにしなかった状況なので、自分に対してかなり懐疑的な気持ちだが、何よりも、問題ない、というよりはむしろいい、という実感がかなり確かだ。むしろ転職活動のほうが、自分のメンタル的にも、進捗的にもうまく進まず、とりあえず一時中断しようかと考えているところ。一度手酷く失敗した分、仕事との付き合い方、仕事をしている自分との付き合い方もわかってきたので、今は恐る恐るそれを試している日々だ。

 

いつの間にか、雨が止んでいる。道路はまだ濡れているのか、車が通ると水の音がするのが心地良い。今日はひどい低気圧で一日中頭が重くてとてもつらかったけれど、気圧のアプリを見ていると、明日は少しマシになりそうだ。明日は、昨日今日と行こうと思って結局観に行けなかった映画を観に行こうと思う。休日に映画を観に行く元気が出てきたのも最近のことで、それもうれしい。どうか春への恐ろしさがわたしを大袈裟に脅かすことなく、一日一日を穏やかに積み重ねられることを祈るばかりだ。ドラマティックな幸福はいらない。むしろそれはこわい。ただ、自分を追い詰めて傷つけることなく、毎日をそれなりに健やかに過ごせますように。来週も再来週も一ヶ月後も、そうありますように。今はそうして祈るように、先のことを見つめ、考えている。

「忘れる」/「忘れたい」

※『違国日記』10巻の一部内容に詳しく触れています。

忘れるということはうれしいことだと思う。忘れるという動作はほぼ無意識のうちに行われているので、忘れたということを自覚すらできないのが忘れるということだ。だから、厳密には、「忘れる」と「うれしい」という感情は完全に同時に成立することはない。つまり、忘れるということはうれしいこと、というのはロジックとしては少し奇妙だ。でも、ときどき、ふいに「忘れた」ということに気づいたとき、わたしはその状態の幸福さについてしみじみと考えてしまう。

別に何でもかんでも忘れたいわけじゃない。忘れたいこと、覚えていたくないことを忘れていたとき、記憶の中から消し去ってしまえたとき、うれしいという話である。思い出と記憶は違って、思い出はできるだけ長く覚えていたい。選ばれた素敵な記憶、それが思い出だ。繰り返す日常は大抵「思い出」にはならない。瑣末なことは記憶が形を留めておけない。もちろん、そういう日常も美しく、必要だ。しかし、記憶にはキャパシティがあって、わたしたちは日々を忘れることで新しい日を吸収している。だから、ときどき、よい思い出もそれらと一緒に忘れてしまったとき、それに気づいたとき、胸に穴が空いたような気持ちになる。それはすこし、むなしい。

でも、わたしには忘れたいことがある。忘れたい記憶や抱えている問題があって、それを忘れてしまうことができたらどんなによいだろう、と思う。だから、よい思い出を忘れてしまう空しさを知っていても、忘れるということはわたしにとって良いことだ。

しかし、この「忘れる」という機能は人間のとても賢い装置の一つだが、残念ながら、とても自然発生的な装置で、決して自発的に作動させることができない。本当に、心底、残念なことに。忘れたいから忘れられることはない。むしろ、忘れたいと思えば思うほど、願えば願うほど、わたしはその記憶や問題から目が逸らせなくなっていく。いつかそういう記憶を忘れられることもある。けれど、まだそうでないものもあって、わたしは、その記憶そのものだけでなく、それを忘れられないということにも苦しんでしまう。

だから、何度も言うが、忘れるということはうれしいことだ。何年も前にすごく辛かったことについて、なんとなくは覚えているものの、その輪郭ほどまでしか思い出せないとき、よかった、と思う。人間は過去を忘れて、未来へ進むようにできている。記憶は、水彩絵の具を水にといてその色を薄めていくように、時間と共に薄れていくようになっている。過去の日記や過去のSNSを見返したときに、その時の記憶や感情が色鮮やかに生々しく甦ってくることがある。それは、見返すそのときまでその記憶を忘れていたということだ。わたしはそれにすごく安心する。心の底から安堵する。わたしにも、ちゃんと「忘れる」という装置は備わっている。だから、きっといま忘れられないとじたばた苦しんでいるこの記憶ともいつか決別できる日が来るだろう、と。

 

わたしが大好きな漫画『違国日記』10巻が今週発売された。毎巻毎話、自分の大事な心の柔らかいところについて、何か気付かされたり慰められたりして涙しているが、今回もまた印象的だった。

主人公の朝は、事故で亡くなった父が自分を愛していたか、ということについてずっと考えている。「なんかずーっとわかんなくて考えちゃうこと」「いつまで考えちゃう 考えなくちゃいけないのかな」「いつ忘れれる?」という彼女の問いかけに、彼女のおばである槙生は「……解決しない問題というものは……ある」と答えた。朝はその返答をその場しのぎ、と言ったが、わたしは問題に対するひとつの向き合い方、付き合い方としてその回答が腑に落ちた。腑に落ちた、というか、ずっと考えてしまうこと、忘れられないことを無理にどうこうせずに、そういうものとしてそこに置いておいてもよい、ということがごく自然に受け止められた。

この「解決しない問題」について、朝の高校の社会科の教師はSDGsと言い換えてみる。持続可能な開発目標。解決しないから持続しなくてはならない。その次のページに、これまでに登場した登場人物たちが並ぶ。左から、笠町、えみり、千世、そして槙生。それぞれ、今すぐに解決しない問題を抱えていることがこれまでに描かれてきた人物たちだ。両親、セクシュアリティジェンダー女性差別、家族や、現代日本社会の中で生きるということそのものについて。ここで、10巻収録の1話目、46話の千世の台詞が思い出された。「……大丈夫じゃないよ」「この先もずっとずーーーーっと大丈夫じゃない …じゃないけど」「大丈夫じゃないまま生きていくからいい そう決めた」

忘れられないことや目を背けられないことと一緒に生きるのは簡単じゃない。忘れたい、とわたしは何度も願う。でも、長い付き合いになる問題を抱えながら生きているひとはいっぱいいるし、そういう自分をとりあえず受け入れてあげることも一つのやり方としてある。そして、千世や槙生やえみりや笠町のようなひとを見ていると、そう生きるひとは強いひとだ、と思う。ひとまず、解決しない問題を忘れられないままいつまでも見つめてしまうことにたくさん苦しんだりすることは、やめてもいい。大丈夫。わたしたちはちょっとずつだけど、前に進んでいる。いつか忘れられるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、それはまだわからないことだ。わからないことだから、とりあえず、解決しない問題、忘れられない記憶、としてそこに置いておいてもいいだろう。

散ってゆくもの、うまれるもの

いつも眠れないけれど、今日が特別眠れないのは、明日が二週間ぶりの病院だからだ。目を瞑ると、不完全な闇が横たわっている。ちらちらと何かが瞼の裏をちらつく。真っ暗じゃない。不完全が故に、眠りに落ちてゆけない。瞼は重いのに、意識は覚醒していて、なかなか眠りの端を掴めない。栓のないことをあれこれと考えてはやめ、考えてはやめ、わたしは眠ることも、怠く鈍った思考をうまく回転させることもできない。言葉が生まれては、途切れ、生まれては、途切れ、繰り返して、寝返りを打つ。

眠りの海に沈んでゆきたい。深く深く、何も見えない、聞こえない、感じない、思い出さない、海の底。わたしはいつも水面が見上げられるぐらいの場所までしか沈めなくて、夢をみる。本当は、何も聞きたくないし見たくない。底の底まで沈めて欲しい。できるなら、もう浮き上がってこられないくらい深いところへ。わたしを夜に、昨日に、閉じ込めておいてほしい。目が覚めるたびに、新しい日を受け入れるたびに、無力で怠惰な自分を憂う。始まってしまった一日をどう消化しようか、持て余す。それは、とても虚しくて、恥ずかしいことで、まともに直視しようものなら耐えられない。輪郭のぼやけた憂鬱にすり替えて、天井を眺める。物語に逃避する。

 

病院は思ったより恙無く終わった。何をそんなに怖がっていたのか、終わってみると忘れてしまっていた。夕暮れより少し前の帰り道、信号待ちをしていると、道の向こう側の空を二羽の鳥がよぎっていった。よく見るとカラスと、もう一羽は知らない鳥で、競うように、二羽は同じカーブを描きながらわたしの背後の空に消えていった。かれらを追って見上げた空は薄青く晴れている。遠い空はもう橙に染まり始めていて、夜がゆっくりやってくるのがわかる。信号が青になる。

 

ⅲ 

パスタの麺をちょうどいい量でフォークに巻き付けることができない。いつもうまくいかないなあ、と思って、思ううちに食べ終わる。年末最後だからと、久しぶりに行った近所のカフェでナポリタンを食べる。初老のマスターが一人でやっているカフェで、コーヒーよりも食事やデザートが美味しく、去年からよく行くようになった。近所に友達がいないので、まだ誰にも教えていない。お気に入りはタルトタタン。今日は朝から何も食べていなかったので、ナポリタンにした。ケチャップの酸味が強めで、麺が太く、玉ねぎが入っていないタイプのこのナポリタンが好きだ。でも、毎度のことながら、上手に食べられない。一度で食べるには多すぎる量を何度も巻き付けて、頬張って、苦しくなった。上手に、美味しく食べたいのに、具材も置き去りになりがちで、理想的な食べ方ができない。満腹になった後、カフェオレを飲みながら多和田葉子の「容疑者の夜行列車」を読んだ。(不思議なこの小説は、内容も相まって度々タイトルを「夜汽車の夜行列車」と勘違いしてしまう時がある。)ゆっくりして、お腹に力を入れる準備ができたら、床に置いた鞄を持って、下り電車に乗る予定だ。滅多に乗らない下り電車で、わたしは今夜、帰省する。

 

言葉にしようのない悪夢を見る。わたしだけが知っている悪夢。悪夢を振り払うように目覚めに手を伸ばす。寝転んで本を読んでいたら、いつの間にかうつらうつらとしていたようだった。読んでいた本はわたしの手をすり抜けてベッド横の床に落ちている。三割も覚醒しきらない頭で、夢の続きを見る。視界に入ったベッドサイドの小さな棚の上の花瓶が気持ち悪く見えて仕方がない。なんとか振り払おうとゆっくりと目を開けたり閉じたりするが、悪夢の余韻はなかなか消えない。こわいものを繰り返す。逃れられない。説明できない。言語にならない。あらゆるものの形が歪められて、戻って、歪められて、繋がって、散らばる。涙は出ない。もう一度、手を伸ばす。

 

もっと冬の空は寂しそうでいてくれないと。車窓の外を流れる景色を見ながら、ぼんやりと思う。年明けから三日間、関東地方はよく晴れた。実家のある田舎町も例に漏れず、毎日上空は清々しいほどの快晴で、東京に戻る今日も空は青い。でも、少し、青すぎる。冬らしくない、濃く、青い空が覗いている。駅まで送るという父の申し出を断って、駅までの二十分を歩いた。久しぶりに歩いた道は何一つ変わらず、相変わらずいい思い出がひとつもない。正月らしく人の少ない駅の改札を抜ける。ホームには、線路の向こう側のロータリーにいる祖父母らしき人たちに向かって手を振り続ける家族連れがいて、いい帰省の終わりだったのだろうか、と考えたりする。間もなくやってきた3両しかない電車に乗り込みながら、わたしはもう暫く帰らないだろうな、と思った。休みの日の上り電車は乗客が少ない。何年も何年も何回も何回も見た車窓の向こうの景色が過去になっていることに安心した。もうずっと過去でいてね。どうか連れ戻したりしないでね、と願う。

空が青い。冬の空は薄青く、高い。もっと寂しそうでいてくれないと。わたしはまだ少し、かなしい。

 

Wild Flower (with youjeen)

Wild Flower (with youjeen)

  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

帰り道はこの曲を聴きながら帰った。わたしがわたしでなくなるとき、あの空へ散りたい、という歌詞の内容が好きだ。