陽光たち

散歩の帰り道、金色の陽が当たる道を選んで歩いた。夕陽や青空、降り頻る雨たちなどの前で、わたしたちは等しくされる、と思う。わたしたちはみな、それらを平等に受け取らざるを得ないからだ。例えばわたしがいまどんな現実を生きていて、どういう人間かという個別具体的な事情をかれらは考慮しない。わたしがどんなグズでも、どんなに価値がなくても、わたしはこのうつくしい金色の陽にあたって束の間歩くことをゆるされる。陽光は誰もなにも、選ばない。わたしが日々直面せざるを得ない、複雑で切り離しがたい現実(凡そすべての"社会人"が背負わざるを得ない※ここでいう社会人とは社会参加し社会生活を営む全ての人間のこと)は金色の夕陽となんの関係もなく、わたしはそこから目を逸らし、目を瞑ることをゆるされる。

 

わたしがワンルームのベッドで毎日毎日毎日毎日、日がな一日蹲っているうちに、確実に時間が経ち、季節が進んでいる、と感じる。陽は短くなったし、肌を撫ぜる空気に柔らかさがなくなった。ぴしりと音がしそうだ。厳しくて無情な、つめたい冬。当然だ、師走も半ばを過ぎた。

毎日、昼過ぎにやっと意識がちゃんと覚醒してくる。起き上がると、とりあえずベッドの近くのカーテンを引く。この部屋でいちばん大きな窓だ。分厚い遮光カーテンがしっかり遮っていた昼の光が薄暗い部屋に広がって、わたしは一日を始める。ただ目の前の現実や、わたしの中に巣食う憂鬱から逃避するためだけにやり過ごす一日を。あるときは物語に没頭し、あるときは何度も何度も眠っては覚めてを繰り返し、あるときは過食にはしる。気がつくと、窓の外が真っ暗になっていて、カーテンを引く。いつも、夜の方がながい。

今日は調子が良くて、久しぶりに外に出ることができた。なんとか人間らしい生活を送れるようにならなければならない、という思いは現状への焦燥感からだけではない。弱いながら確実に、少しずつ、そう"したい"と思う自分が内側に出てきている。15時過ぎに家を出て、自宅から少し離れたところにある公園まで歩く。公園の方々に設置されたいくつかのベンチのうち、陽が当たっているものに座って持参した文庫本を読んだ。公園の隣のマンションが西陽を遮るように建っているので、陽が当たるベンチはひとつしかなかった。公園内は楽しそうに遊び回る子どもたちしかおらず、その特等席はわたし以外に見向きもされていないようだった。

暫くそこで過ごして、ゆっくり帰途に着いた。黄金色に照らされる道を思うままに選んで、出鱈目な経路で帰った。都会はものが多すぎるので、田舎の畑道のように陽光が目の前の景色いっぱいに広がることはない。でも、大小様々な建物に遮られ、限られた場所を照らす光も悪くはない。そこを通るとき、不思議と特別な感じがした。ゆるされている感じがした。わたしはやっぱり、傾いて色のついた陽の光がとても好きだ。

 

夜、久しぶりに中原中也の詩集を読んだ。長いこと本棚の奥で眠らされていた文庫本は、装丁が微かに歪み、ページの端の色が変わっていた。埃っぽいにおいもする。

かれの言葉は美しかった。今日は今まで読んだどの時よりも、かれの良さを理解できた気がした。おんなじ言葉を読んでいるのにね。不思議だ。

 

   "暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔

 馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は

 やがて涙つぽい 晦暝となり

 やがて根強い疲労となつた

 

 かくて今では朝から夜まで

 忍従することのほかに生活を持たない

 怨みもなく喪心したやうに

 空を見上げる私の眼ーーー"

 

中原中也『汚れちまつた悲しみに』(集英社)より"木蔭"一部抜粋

後悔の先は疲労だとわたしも思う。そのことに今更気づいて、途方に暮れている。疲労の更に先は、忘れることだと思う。忘れることができないのであれば、選び直さなければいけないだろう。

まだ、こわい。だからいまは難しい。でももう、このトンネルの出口について、少しずつ考えなければいけないのだ、と思う。